アフガンいのちの基金No.26
「病院やクリニックの様子」

PMS病院看護部長 藤田 千代子
2001年11月06日(火)

ジア副院長からの報告には、私達も胸のこそげるような悲しみと憤りを感じ、と同時に、今こそアフガニスタンへ食糧を届ける時であり、今こそ最も医療が必要な時だと認識しました。

 私達も「もうずいぶん寒くなった。何とかして、はよ食糧を送らないかんね。カブールクリニックも薬が不足せんごと、ちゃんと頭に入れとかんといかんね。」と、ある意味で力が湧いてきました。

 土曜日(11月3日)の夕方、カブールから帰って来たジア副院長は病院への報告を済ませ、日曜日(4日)を家族と過ごした後、昨日月曜日(5日)には、再度アフガニスタンへ向かいました。今月の中旬から始まるラマダーン前までに、出来るだけたくさんの家族へ、何とかして食糧を届けたいと言って、急いでペシャワールを発ちました。

 昼過ぎにジャララバードに着き、ジャララバードに食糧を一時確保出来る大きな倉庫が見つかったと嬉しい報告をしてきました。それを受けてこちらでは、早速明日(7日)小麦粉トラック10台分、280トンを発送する予定です。その後すぐに食用油も送ります。こちらでは、目黒さんや事務長が製粉工場との交渉や運送の手配をし、ジア副院長の「送ってくれ」という要請にすぐ対応できるこの連携作業の良さに、思わず拍手を送りたい気分になりました。

 大きな倉庫が確保できたので、これからは一日おき位に小麦粉と食用油を送れるように手配してゆきます。これからはますます日本、ペシャワール、ジャララバード、カブール間の連絡を密にするようにと、中村先生が念を押されました。ジア副院長のカブール不在中は、残ったスタッフ達が食糧配布家族の調査を続けていましたので、すぐにも配布が始められるのではないかと思っています。

 カブールの5つのクリニックでは、いつもの通りに診療が行われているそうです。クリニックの一つダステバルチーには、9月から勤務していたナース(看護士)の一人が帰って来ました。彼のいるクリニックは、らいの患者さんが多い所で、新患や以前治療をどこかで受けたあとの人や、治療を途中でやめた人、再発(再燃)した人などが来院していましたが、最近はその数が増えていると言っています。

 明日(7日)、このナースは食糧運送のトラックに同乗してアフガンへ行き、カブールの勤務に戻るので、足に感覚障害を持つらい患者さん用の靴を、たくさん持って行って貰おうと思っています。まだ10月の診療報告が届いていないので、正確な数はわかりませんが、彼の話によれば、クリニックのある場所によっては昼間の爆撃を恐れて家から出られずに、受診出来ない人達がたくさんいるそうです。またバザールでは野菜や肉、果物、日用品の数が減ってきているそうです。

 このナースはパインシェーリー(パンジシェール渓谷出身)で、9月に暗殺された北部同盟の司令官アフマッドシャー・マスードと同郷人で、彼の叔父の一人はソ連とアフガンゲリラが戦っていた時、この司令官の側近だった人です。このナースにカブールクリニック勤務を伝えた時「タリバーン支配下では勤務がしにくい。もし外出したらきっとタリバーンにつかまり意地悪をされる。」と拒否しましたが、他のアフガン人達に聞くと、大丈夫だから送って良いという意見が多かったので、カブールに送りました。

 私達のカブールクリニックが始まってから9ヶ月になりますが、彼はそのうちの6ヶ月間をカブールで勤務しました。今回は4日ほどペシャワールで用を済ませたら、すぐカブール勤務に戻ると言っています。カブールで勤務するからと言って、特別な手当など何もありません。連日連夜続く米軍の爆撃を見聞きしながら、過ごしていたであろうに、何が彼をこんなに変えたのだろうかと思いながら、彼の話を聞いていました。と同時にナーストレーニー(看護学生)だった彼が、ペシャワール会がなぜ発足したかという所に一致して来たスタッフの一人になりつつあるのではないかと感じられました。

 ペシャワールの病院では、最近ぽつぽつとアフガニスタンからペシャワールへ避難して来た人達が来院するようになりました。昨日は悪性マラリアで入院していたアフガニスタンの子供が、数日の入院であっという間に回復して退院して行きました。入院時から2日間くらいは高熱と頭痛、吐き気、嘔吐の為に話をする元気もなく、目を開けているのがやっとで、死んでしまうのではないかと心配され、観察室に入れました。治療が始まって3日目には、庭で散歩している姿が見られ、昨日の退院となり、看護していた者達もこの回復力を喜んでいました。

 この子供が入院して来た前日には、6ヶ月の赤ちゃんが同じマラリアで入院していました。入院時意識ははっきりせず、血管確保の為に針をさしても反応は僅かで治療を開始し、中村先生や主治医が救急蘇生にかなりの時間をかけて頑張りましたが、まもなく死亡してしまいました。この家族は20日前にジャララバードからペシャワールに避難して来ており、5日前からこの子供の具合が悪くなった為に他の病院に入院させていました。しかし状態は悪くなって行くばかりだった、それに薬代、その他入院治療に必要な物(注射器、ガーゼ、包帯、点滴チューブなど全ての医療消耗品)を買うお金も足りなくなって、どうしてよいか判らなかった、と母親が話していました。

 彼女は子供が死亡した瞬間、自分の怒りを何処にぶつけてよいの分からないかのように頭を左右に激しく振り、握りこぶしで自分の膝を何度も何度も殴りつけて泣き崩れました。母親のショールにくるまれた50センチにも満たない小さな赤ちゃんを抱きしめて、病室を後にした家族の怒りと悲しみが私達にも伝わり、そこに居た医者、看護士、検査技師の誰も口を開きませんでした。アフガニスタンの女性や子供に教育を、と言っていたのはいつの事だったか、などとその時、ふと思い出していました。


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