この26年で最大規模の仕上げ作業
正念場です。ご協力を切にお願い申し上げます。

PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス=平和医療団日本)総院長
ペシャワール会現地代表 中村哲
ペシャワール会報102号より
(2009年12月16日)
PMS病院を譲渡
 みなさん、いかがお過ごしですか。
 11月初めに帰国していましたが、まもなく現地に戻ります。
 この1年、現地でも様々な出来事がありました。パキスタン北西辺境州の内乱状態、アフガン反政府勢力の活発化が米国・NATO軍の増派でさらにひどくなり、欧米軍の侵攻以来、治安は最悪となりました。外国軍の死者も過去最悪を記録しています。
 10月に行われた大統領選挙による混乱に続き、12月、燃え盛る火に油を注ぐように、英米軍の大量増派が決定され、アフガン情勢は危機的な転機を迎えようとしています。紛れもなく、ひとつの破局が始まったと言えそうです。

 私たちの現地活動も、それに翻弄され続けながら今日に至っています。2009年を振り返ると、大変めまぐるしいものがありました。医療活動が戦火によって後退しました。市街戦と爆破事件が日常化する中で日本人スタッフの渡航が不可能となり、肝腎の基地であったPMS(ペシャワール会医療サービス)病院が7月、地元団体に譲渡されました。これは2年半前から予想したことでしたが(註 2007年10月「ペシャワール会報」No.93参照 本文末に再録)、これほど急速な転回とは思いませんでした。地元団体を構成しているのは旧職員の有志たちで、北西辺境州の戦乱で発生した200万人の避難民があふれる中、とどまって活動を続けています。

 なお、1年半前からカイバル峠は外国誘拐、欧米軍への襲撃が日常化、ペシャワール=ジャララバード間の交通は現在、地元民でも危険となりました。
 この結果、現地活動の中心がジャララバードに移りました。ペシャワール会は、拠点とするペシャワールにあってアフガニスタン・パキスタン両国にまたがる活動でしたが、両翼の一つを失ったことになります。今後、活動はアフガニスタンだけに限定されることになります。かつて、カブールの臨時診療所を入れると11ヶ所あったものが、ダラエヌール診療所を残すのみとなったのです。それも、戦火によることを思えば、内心穏やかでないものがあります。

現地PMSの名称変更
 戦争の惨めさは、膨大な死者を出すだけではありません。敵意を煽る風潮が、時には意図的に、偏見と対立を助長します。米軍のパキスタンへの戦火拡大は、これまであったアフガン人とパキスタン人との反目を助長し、今度は「ペシャワール」の名がアフガン政府側から偏見の目で見られ、パキスタン側ではアフガン人追い出しに拍車をかけました。

 「PMS」の名は、東部アフガンの人々にとって広く親しまれてきましたが、職員が身分証明書の提示を求められ、拘引されることがまれでなくなってきました。中央からやって来た警官や外国兵が、「ペシャワール」という名前だけで、怪しいと見るのです。このため、職員百数十名の安全を考え、現地活動組織の名称変更を余儀なくされました。
 2010年から、PMSは、Peshawar-kai (Japan) Medical Services(ペシャワール会・メディカル・サービス)から、Peace Medical Services(ピース・メディカル・サービス)へと変わります。しかし、地域住民の間では「PMS」のままで、殆ど変化ありません。また日本のペシャワール会の名称変更はありません。

今が一番の正念場
ガンベリ砂漠横断水路(通水後)
 この中にあって、去る8月、マルワリード用水路24,3キロメートルの開通は、明るい壮挙として伝えられました。日本・現地一体となり、多大のエネルギーが費やされました。加えて、念願のマドラサ建設も大詰めを迎えています。

 一連の報道で、「ペシャワール会も遂に撤退するのか」という印象が広がりましたが、実は今が一番の正念場だと訴えたかったのです。当方の予想では、おそらく来春から大きな動きが始まり、渡航や送金ができない事態を想定し、おそらくこの26年で最大規模の仕上げ作業を、全力で完了しようとしています。

通水前
 開通した用水路は、その後の維持を可能にするため、様々な付帯工事が残っているし、湿害対策のための長大な排水路、開墾地の分水路などが整備されないと、とても「工事完成」とは言えません。これらを2010年2月までに完了し、不測の事態に備えるのです。

農業チームの成果生かす
 犠牲になった伊藤和也くんの関わった試験農場は、ダラエヌール渓谷下流域の沙漠化が迫り、まもなく耕作ができない状態になりつつあります。そこで、開墾中のガンベリ沙漠に移し、いずれ200ヘクタールを確保、開拓農家の自給自足を目指すと共に、より大規模な形で農業チームの成果を生かす予定です。数々の試行錯誤で得たものを、今度は実際に流通機構にのせ、より実際的な市場での反応を調べることができるようになります。その意味で、水路の行き着く沙漠の開墾は、重要です。

 早々とその明るい可能性を確信させたのは、四月段階で同沙漠に到着した第一弾の分水路の水でした。約250ヘクタールで住民たちがスイカを植え、今や一大産地となり、ジャララバードからカブールの市場を総なめにしたのは、先に報告したとおりです。このとき活躍したスイカの種が、何と日本から輸入されたものでした。沙漠の開墾に大きな希望を与えた出来事でした。

マドラサの開校
 マドラサ(モスク付属学校 前頁写真)の方は、9月から600名の学童が通学しています。モスクの内外装と運動場の整備を行い、2月に地元へ譲渡式を行います。これは水と同様にアフガン農村に不可欠なもので、ともすれば流血の衝突を招く民族や部族の対立を避け、地域共同体の要となり、ジャララバードの街にあふれる孤児たちや普通学校に行けない貧しい子弟たちに教育の場を提供します。

不動の良心を対置
マドラサ全体を眺める。手前がN水路。周辺は完全に耕地を回復した
PMSの手がけたマルワリード用水路以外の、近隣地域の取水堰の最終的な改修も行う計画です。(取水堰は通常数年をかけ、改修をくりかえして安定します。冬の低水位期でないと、河の工事ができないのです。)現在、マルワリード用水路とシェイワ用水路併せて3500町歩、ベスード郡3500町歩、カマ郡7,000町歩、合計14000町歩が沙漠化をまぬがれ、60万の農民たちの生活を可能にしています。これも何とか守らねばなりません。

 人々は30年を超える戦乱、そして進行し続ける大旱魃に疲れ切っています。いわゆる国際社会の間で、「アフガニスタン」は何度も忘れ去られてきました。「外国に荒らされ続けた」との思いが人々の中に広がっています。「食べられなくなった自給自足の農民たち」が都市に流れ、職がなく放置される中、皆が夢見るのは、水の流れる故郷で耕して食を満たし、家族と一緒に平和に暮らすことです。それ以上の望みを抱く人は少ないでしょう。そして、その最低限の望みは、人間ならば誰でも共有できる世界中の願いでもあります。

 「3万人の兵力増派」に、2,5兆円が使われる一方で、数百万人の罪のない飢えた人々がさまよう。外国がつぎこむ国際貢献のお金が増える度に、一部の人々だけに華美と贅沢がはびこり、巷には流血と飢餓が広がる。こんな世界は異常です。
自立定着村居住区。まず20戸を作り、来年早々開拓農民の生活が始まる

 私たちの支援は決して大きなものではありません。しかし、貧しい人々がやっと帰農できた総計約14,000ヘクタールの貴重なオアシスです。ナンガラハル州北部60万人の農民たちの生命がかかっています。
 足音高く近づく暗雲を目前に、なんとか彼らの生命と生活を保障し、「平和」の何たるかを突きつけたいと思います。ここ数カ月間が私たちの築き上げてきたものの総仕上げであり、こころない戦争に、不動の良心を対置するものであります。
 内外ともに暗い世相であればこそ、敢えて人としての明るい希望を分かちたいと思います。ことはこの数カ月間の最後の大工事にかかっています。会員の皆さんのこれまでの御厚意に心から感謝し、さらに御協力を切にお願い申し上げます。
良いクリスマスとお正月をお迎えください。

* 註
 PMSは1986年、難民救援団体としてパキスタン政府に登録され、当事無視されていたアフガン人のハンセン病患者の診療から出発、その後アフガニスタン山村部の無医地区診療モデルを作ることを目指して活動を続けてきました。

 1998年4月、このために恒久的な基地病院をペシャワールに建設、パキスタン政府に認められた難民支援の国際団体であると同時に、北西辺境州政府に認可された団体(社会福祉法人)として二重の地位を得ました。これは、半永久的なハンセン病専門施設を置き、長い年月を要する同病の患者のケアを目指したものでありました。

 また、「いずれ難民機関のステータスは消滅するので、地域の医療機関として根を下ろしたがよい」とのパキスタン政府高官の勧めに従ったものでありました。私たちは、「これで現地に土着化して活動できる」と信じ、完璧に合法性を遵守してきた積りでいました。

 しかし、今年(2007年)5月になってアフガン難民強制帰還の動きが始まると、突然「診療内容の改善命令」が中央政府から出されました。「正規の看護師がいない。州政府への二重登録は違法である。州政府認可なら外国からの運営費を使えず、管理者はパキスタン人でなければならない」というものでした。

 調べてみると、確かに法的には改善命令は正しいものでした。ただ、解せないのは、それなら何故9年前にそれを知らせなかったかということです。また、ハンセン病に対する医療関係者の偏見が強く、パキスタン人の医療者は就職したがりません。それに、ハンセン病の合併症は、整形外科、形成外科、眼科、皮膚科、神経科と、総合的なケアを要するので、特別な訓練が必要です。やむなく、自前で診療要員を育て上げ、現在に至っています。

 そこで、合法性を得るために、資格のあるパキスタン国籍の看護師、医師などを雇用し、「基準」を満たす努力を続けました。だが今度は、日本人ワーカーのビザ取得が困難になりました。ひどい場合は、2週間しか滞在が許されず、出入国を繰り返していると診療ができないのです。それでも患者のために不便を凌いできましたが、ひとつ「改善」を達成すると、また次の「改善点」が要求されます。こうして役所との対応に忙殺され、とても診療ができる状態ではなくなりつつありました。
 ついに万策尽き、疲れ果てた当方は、「改善命令が事実上の閉鎖要求であり、難民強制帰還に伴う国家方針」であることを悟り、拠点をアフガニスタンに移して実質的な診療に力を注ぐべきだとの結論に至りました。
(ペシャワール会報No.93の中村医師の報告より)