ペシャワールから沖縄へ【10回】
変貌の日本

中村 哲
沖縄タイムス 寄稿記事
2003年11月28日(日)
食糧の確保と平和な村の回復を目指し、用水路を建設している(12月11日)
暮れの押し詰まった26日、私はアフガニスタンの山中から突然、東京へ降り立った。まるで別世界のようである。林立するビル、こざっぱりした身なりの人々、停電もない不夜城のような明かり、分刻みで正確に動く列車、受話器を取って電話番号を押せば誰とでも簡単に通話ができる。

つい一昨日まで、旱魃地獄の中で生きる糧と水を求め、人々を叱咤激励していた自分自身が、別人のように遠くかすんでくる。鏡をのぞいて、日焼けと無精ひげの自分と向かい、「お前は誰だ」と心の中で叫ぶ。まる1カ月、隔絶した山中で聞く世界が遠く思えたが、今度は夢のようにアフガニスタンを追憶する。

イラクに自衛隊が派遣されることを聞いたのは、そんな時だった。「まさか」と思えることに遭遇すると、人は現実感を失うことがある。ちょうど1年前、10歳の息子を脳腫瘍で失った時、寸前まで万が一の奇跡にすがっていた。2年前、アフガン空爆が強行された時も、そうだった。子供のとき戦火をくぐった大人たちが語る平和の尊さが、今足元から崩れ落ちる実態もまた、そうである。「取り返しのつかぬことを」と思った。世界は不条理と虚像で満ちあふれているのだ。離人症のように、ぼんやりと日本の現実と対面する。そして、急激に変貌した祖国に愕然とするのである。

月日は移ろいやすい。人間たちの関心もそうである。アフガン空爆も、復興支援も、濁流に飲み込まれるように人々の意識から消えうせてしまったように思える。さまざまな論評も、批判も、政治的ご都合主義の中で嘘のように葬り去られた。

米国は「アフガニスタンの成功例」を基にイラクに戦争を仕掛けたし、米国との腐れ縁に引きずられる日本は、ついに国是を破って自衛隊派遣に踏み切った。しかし、寒風にさらされるアフガンの避難民の大部分は、ついに国際支援の恩恵に浴さなかった。大方の国際団体は活動を停止するか、スポットの当たる別の地域に移動した。日本中を巻き込んだ、あのニューヨーク・多発テロ事件、それに次ぐ空爆や復興の話題はどこに消えうせたのだろう。

しかし、「アフガニスタン」は厳として自分の目前にあった。そこでは争いに疲れた人々の群れが、飢えや渇きと戦い、国際的関心とは無関係に生きる様がある。過去20数年間と同様、たくましく苦難をすり抜け、必死で生きようとしている。

多くの者がアフガニスタンを語り、平和と戦争を語り、世界のあるべき姿を語り、そしてアフガニスタンから足早に離れていった。私たちの言動も批判や賛同に包まれたが、結局は「残る者が残り、後始末をせざるを得ない」というほかはなかった。

私の描いてきたアフガン像の正確さはともかく、動かせぬ事実は、これを機に、一見勇ましい暴力主義が幅を利かせるようになり、世界が何かに憑かれたように大きく揺れ始めたことである。今や、私たちの信じて疑わなかった「民主主義」や「自由」が戦争の大義名分となり、西欧的価値に従順でないものはすべて、異物として葬り去られるようにさえ思える。「世界平和維持」のために軍事行動が是認される時代となった。

だが、これらは今に始まったことではない。かつて日本もまた、「東洋平和」のため、「大東亜共栄」のため、無謀な軍事的冒険を行った。旧ソ連は、人民解放のために、膨大な人民を殺りくした。19世紀の列強の植民地主義は「遅れて貧しい者たちの教化」を旗頭にして、征服戦争を正当化した。平和は、戦争と戦争との間の、つかの間の休息であったに過ぎない。

だからと言って、「平和」の価値が揺らぐものではない。暴力による圧伏は、決してよい結果を生まないだろう。私たちが過去を裁いたその秤で、遠からずして私たちが裁かれる日がくるだろう。国家的暴力を正当化するどんな言葉も空疎に響く。「平和国家・日本」への憧れは、しょせん夢だったのだろうか。私たちはいったい何を守るために、遠い国々へ武力を発動するのか。私たちは、次の世代へ何を残そうとするのか、真剣に思い巡らす時代にあることを知るべきである。私たちPMS(ペシャワール会医療サービス)の現地事業の軌跡が、ひとつの灯となることを祈るばかりである。