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ペシャワールから沖縄へ【11】
治安回復の道

中村 哲
沖縄タイムス 寄稿記事 2004年3月28日(日)

アフガン報道の減少に比例して、外国NGOも減りつつあるが、逆に私たちPMS(ペシャワール会医療サービス)は、活動を拡大し、東部アフガンでは数少ない「外国支援団体」として人々に頼りにされる存在になってしまった。これは決して喜ぶべきことではなく、それだけ救援活動が下火になってきたということである。

外国人がアフガンから撤退する理由に、しばしば治安の悪化が挙げられるが、その背景について深く考えてみる必要がある。私たちの活動に限っていえば、現地で必要とされる限り、住民や「テロリスト」に襲われる危険性は考えられない。むしろ住民が私たちを守ってくれるからである。
▲用水路建設でショベルカーを操作して陣頭指揮をする中村医師

私たちは、これまでの医療活動に加え、3月現在、完成した飲料用水源(井戸、カレーズなど)は1,000カ所を突破し、さらに砂漠化した田畑を回復すべく、昨年3月に用水路の建設に着手した。これで3,000ヘクタールの農地を回復し、10数万人の難民を呼び戻す計画である。

用水路建設はこれまで再々紹介したが、水位の下がる冬期に取水口の完成を目指し、連日の突貫工事が続いた。冬期とはいえ、すさまじい日差しの中、日本人の青年ワーカーたちも休日返上の3カ月だった。私自身現場に張り付いてショベルカーを操作しつつ陣頭指揮した。慣れぬショベルカーの操作は、助っ人に来た中年ワーカー石橋氏の指導である。

この間、米軍ヘリが作業現場を銃撃(2003年11月)、一時は緊迫したが、3月初め、最も難関であった取水口と水門から2キロ地点までが完成した。これに従事した作業員700人は主に干ばつ地帯の住民で、1年間で延べ10万人を超えた。

農民である彼らは、用水路が自分の田畑に来るまでは日当(日本円で240円)で何とか生活をしのげる。勢い士気は高く、みんな希望を持って黙々と働いた。用水路が通る予定地域では、家屋が修復され、無人だった廃村に日ごとに人影が増えはじめ、村がよみがえり始めた。

治安の悪化は、窮する生活に加え、危うく保たれていた秩序が米軍の干渉で崩れ、鳴り物入りのアフガン復興支援への失望感が起因している。干ばつで流民化した人々が職を求めて大都市に流れ、さらにパキスタン、イランへと逃れる。国連筋が毎年、幾百万の難民帰還計画を立てようとも、半砂漠化した田畑での生活は成り立たず、Uターンして舞い戻るケースが多い。

軍隊とともにやってきた外国製の「民主主義」など、既に旧ソ連の侵攻とともにきた「近代化策」で実験済みである。引き続く戦に疲れ、食するにも困る人々の視線は米軍と外国同盟軍にも冷ややかである。
アフガン人口の8割以上が農民である。兵農分離がない農村社会で、すべての青壮年層は同時に村を守る兵員でもある。武器の操作にたけた彼らは、生活に窮すれば軍閥や米軍の傭兵として働く。現地では、毎日数十人のアフガン人が戦闘で落命している。「国際社会」では、外国兵士の死は報ぜられても、彼らの犠牲は紙面を飾らない。米兵の犠牲が少ないのも、危険な前線を軍閥と傭兵に請け負わせ、自国の兵士を配備しないからである。

だが、人を殺した報酬で生きることを喜ぶものはいない。本来農民である以上、耕して生きることの方が良いに決まっている。あらゆる意味で「平和に耕せる農村の回復」こそが、アフガン復興の要なのである。

私たちは「アフガン問題」を論ずることなく、差し迫った「命の問題」と現場で向き合ってきた。アフガンの「あるべき姿」を押し付けるのではなく、無名のアフガン人たちの声なき声に耳を傾け、復興のために苦楽を共にしてきた。

取水口の難工事が一段落した3月7日、700人の作業員が歓声を上げ、州知事も駆けつけて祝福した。カブールからは、灌漑省の役人が実見に来た。今、世界中の人々が、戦争に反対し平和を希求することの困難さに直面している。私たちの事業はささやかである。しかし、ここに、文化や政治的立場を超えて人々を安どさせ、人間として向き合うための確かな鍵があると思えてならない。

虚構の理屈にだまされてはならない。危険なのは決してテロリストではない。弱い者の立場をくまず、ことを己の利害で解決しようとする強者の驕りと愚かさである。強者としての己が裁かれる日が来ることを、私たちは知るべきである。