政変の激浪に揺れるペシャワール
PMS看護部長・院長代理 藤田千代子
ペシャワール会報98号より
(2008年12月17日発行)
女性患者の治療をする藤田看護部長/PMS基地病院にて
急速に悪化したペシャワールの治安
ペシャワールから帰国して1ヶ月が過ぎようとしている。
 ここ数年、病院の進退について数回方針が変わる中、最終的に今年7月国際NGOへの登録が決まり、9月中旬には病院でパキスタンと日本との合同理事会を持ち、登録手続きが進められる予定だった。今こうして日本でこのようなことを書いていても、それがたった数ヶ月前のことだったとは思えない。それ程にパキスタンの治安情勢の悪化は激しさを増していた。

 数ヶ月前、米国の圧迫により、強行されたと言われている、パキスタン軍による自治区の武装勢力(アフガニスタン内でアメリカ軍やNATO軍を攻撃している武装勢力がペシャワール近郊の自治区にいるとされている)の掃討作戦は誰もが認めるように、形ばかりのものだった。私達の病院がある北西辺境州、それもペシャワールのすぐ隣の地区で戦闘が始まったと報道されていたが、病院の近くのペシャワール空港での戦闘機の離着陸は殆どなく(2001年米国によるアフガニスタン攻撃時は離着陸時私達の宿舎の窓がしばしば振動しその音を不吉な思いで聞いていた)、病院の誰もが、これは政府が取りあえず米国の要求を満たす為に行った、形だけの戦闘だと言っていた。かつて軍人だった、病院のイクラムラ事務長は「軍隊が同胞に対して爆撃するのではどうしても士気があがらないだろう」とも言っていた。

 しかし9月、大統領交代の前後から北西辺境州の中でも特にスワット地区、バジョワール地区では、国内避難民が数十万人出るという本格的な戦闘になっていった。私達が帰国する前は、ペシャワールにあるカッチャガレイ・アフガン難民キャンプ跡地(アフガン難民が立ち退いた直後にブルドーザーで潰された広大な更地)にも新たな国内避難民がテント生活を強いられていた。スワットのミンゴーラ近くから来ている病院の職員がいるが、彼も家族を避難させた。現地の新聞によると米国による辺境地での戦闘訓練支援計画で米国人が数十名実際に戦闘に入って訓練しているとのこと。

 自治区での政府軍の攻撃が激しくなるに比例して反政府軍の活動もまた活発になり、警察や官僚、政府関連の建物などが次々と襲撃されるようになった。私達の身辺もだんだん騒がしくなって来た。病院のすぐ前にある警察のポリスが1名殺害され、残ったポリスが病院に避難して来た。翌日警察から夜間だけ院内にいさせて欲しい、また病院ゲート横の2階の職員宿舎ベランダに警察の夜勤者を詰めさせたいとの要求が来たが、病院職員や患者が巻き込まれることを避け断った。夜間は殆ど毎日、病院周辺では撃ち合いがあった。

 治安当局より、外国人の安全を確保することが難しいので、病院内に日本人は居住しないようにとの厳しい達しがあり、ワーカー7名が病院から車で20分くらいの所にある宿舎で一緒に生活するようになった。そうなると今度は日本人7名固まっての通勤が心配になり、病院の近くのもっと安全な所へと引っ越す必要があった。9月、宿舎の移転を済ませた翌日、私達の元の宿舎からの通勤路上でアフガン大使が誘拐され、ドライバーがその場で射殺されるという事件が起きた。治安当局からは病院や宿舎からの外出時は護衛をつけるので、その度に警察へ連絡するようにとの達しも来た。数回護衛を付けたがこれではかえって外国人であることを周りに知らしめている感もあり、私達に同行する現地職員をも危険な状態に巻き込むのではないかと懸念された。

患者とスタッフの行く末
 このようにパキスタンの治安は悪化するばかりで改善の兆しは全くない状態となり、病院の日本人ワーカーの全員引き上げの決定が下された。
 10月初旬の断食明けのイード祭後、中村先生より病院の全職員へ、治安悪化による10月中の日本人ワーカー全員の引き上げ、それによる病院機能の縮小が説明された。

 病院はイード明けより外来診療のみとなり、ハンセン病患者の受け入れ体制を残し、その他疾患の入院機能はなくなった。しかしこれまでPMSでケアして来た、ハンセン病に類似する神経障害による手足の創傷をもつ患者は手当に来るので、むげに断るわけにも行かず、入院治療を続行した。

 病院機能縮小=外来患者のみの診療になるので午後から仕事のない職員が出た。余剰人員の調整は大きな懸念であった。もちろん、職員の誰もが日本人ワーカーのいなくなった後の病院の体制を考えただろう。それによる不安を隠さない職員もいた。中でもキリスト教徒である職員が日本人職員がいる間に退職したいと申し出、アフガン人職員で退職又はジャララバードへの異動を申し出る者もいた。アフガン人達の頼りとする副院長であるアフガン人ジア医師が7月よりジャララバード事務所の仕事に張りつけになっており、病院勤務が殆ど不可能な状態が続いていて、更に私達が居なくなった後、パキスタン人による運営体制に不安感を募らせていた。現在のように洲や国の治安が悪化し、更に経済破たん状態になると、一般の人達の怒りが彼ら少数派のキリスト教徒やアフガン人達に向けられることが容易に想像できた。これがもし日本で自分の身の回りに起きたとしたら、私はどのように行動するだろうかと考えたりした。家族を食べさせるため、精一杯の生活をしているところに、隣国からの難民がいる。隣国では旱魃で作物が取れない、更に戦争がある。こんな時、私達はどのように行動するだろうか。

 1回、2回と職員調整で退職を申し渡す度に、当人はもちろん他の職員達の表情は固くなっていく。今回の縮小で退職せざるを得ない職員に関しては数ヶ月の生活は必ず保障するとの約束通り、勤務年数により2ヶ月から最長は6ヶ月の退職金支払いを実行した。更に通常の退職時にそれまでの勤務態度などによって支給の有無、支給割合が決められる病院からの積立金も全退職者に支給した。こんな日々の中救われる思いがしたのは、これらの退職金で、ある者は小さな雑貨店の開業準備を早速すすめ、病院で洗濯の仕事をしていた者は家族が持っている洗濯店の拡張を計画していたことなどである。

 退職、異動を合わせると総勢27名が病院を去った。
 副院長のジア医師が不在なので大急ぎでイクラムラ事務長に運営を引き継ぎ、薬品の準備もしっかり出来ていない状態で帰国したが、外来患者の診療は何とか滞りなく維持している様子である。
 パキスタンもアフガニスタンも、経済的な事情から医療を受けられない人達が大勢いることは以前と変わらない。その中で、両国がこれからどうなって行くのかを思うと気が重くなるが、ここ数年のパキスタンに絶望感を募らせているイクラムラ事務長と「それでも希望を持って祈りながら様子を見よう」と毎日、毎日話して来た。
 日本各地で、現地で働く私達ワーカーの安全を祈ってくださった多くの方々に、感謝の気持ちを伝えたい。