日本語なるものを考える
―ペシャワール日記―
PMS会計担当 中山博喜
2003年12月28日(日)
パキスタンにて
ことの起こりは私が現地に着いてからで、到着するやいなやすぐに始まったわけである。

で、何が始まったかというと、異文化的不可避的ちんぷんかん的“言葉の壁問題”が勃発したわけであった。

この壁に対してであるが、異国で活動する以上ゼッタイに通る道であることは重々承知の上で乗り込んできたわけだが、これがどうして、実際に壁の前に立つとかなりデカイことに気づく。ありゃ〜、さーてどうしたもんだか、と考えたところで、結局は地道によじ登っていくしかないわけであるが、ん〜、さーてどうしたもんだか、やっぱり考え込んでしまった。

こんな時はキモッタマの大きな人がいいですね。毅然とした態度でまったくビクつかない。
「僕は日本人なわけで、然るに日本語を話すわけですよ。以上」
といった感じで、現地語が話せないことを完全に肯定してしまっている。ガンガン日本語で話していって、最終的にはこれがどうしたものか会話が成立している。

ところがしかし、私の場合、小指の先っちょ程しかないような小さなキモッタマしか持ち合わせていないがゆえ、
「僕は日本人なわけで、えー、うー、…すみません」
いけません。NO(ノー)と言えない日本人然り、よく分からないまま謝っている状態。重厚に立ちはだかる壁を前に、いよいよ考え込んでしまっている。

結局のところその日から地道に壁をよじ登ってきたわけだけど、これがなかなかもってよろしいのである。「人間、やればできる」とまでは行かないまでも、「人間、やればそれなりにできる。…かも」くらいの域に達している。何事も崖っぷち、火事場の何とやら、興味を持つとそれなりに壁の向こうが見えてくるものである。

壁の向こうが見えだすと、これがなかなかもって気持ちがよい。ことばを覚えるのが楽しくなってくる。理由はともあれ興味を持つというところが何だか重要である。

してこの興味であるが、持つのはなにも私だけに限ったことではないわけで、もちろん現地語を覚えるべく悪戦苦闘している人だけが持つことのできる「幸ある特権」というわけでもない。つまるところ何を言いたいのかというと、私が現地語に興味を持ったのと同じように、現地の人々は日本語に興味を持つようになる、ということを言いたいわけである。

考えてみれば当たり前であって、長い時間を自分と共に過す仲間が、何やらよく分からない言語を喋りに喋っているわけで、相手が何と言っているのか知りたいと思う欲求は誰しも必ずおきるものである。

ただしかし、切実さというか、切迫度というか、死活問題加減というか、はやい話が彼等は別に日本語が分からないからといって困ることはない。困ることはないので彼等の知りたい日本語も、初めて会った時の挨拶の仕方や御礼の言葉、数字や食材の名前などと限られており、言い回しの難しい文章は覚えようとしない。ま、困らないから。

ところがどっこい、彼等が本気になって日本語を覚えようとすると、これがビックリするほどよく覚える。はっきり言って私は嫉妬してしまう。私の地道は何だったのかと思ってしまう。集中力の問題なのだろうか。何かいろいろあるのだろうが、ことさら先に述べた、相手が何と言っているのかを知りたがる時の彼等の執着心には本当に驚かされる。

「ミスターナカヤマ、"アノデスネ"って何だ」とか
"イヤイヤイヤッ"って何だ」とか
"ワカリマシタ"って何だ」とか
"スミマセン"って何だ」(やはり頻繁に言っているのだろうか)とか、とにかく人の会話を事細かに耳に入れ分析している。 しかし時には派手に間違った分析をしたり、私の返答のマズサから、話としては面白いのだが、現場にいる者としては何ともしがたい状況に陥ることもある。

公衆電話屋さん
ある日、事務職に就いている男が「君がよく言う"モシモシ"というのは何であるのか」と訊いてきたので、 「電話を取った時に最初に言う"hello(ハロー)"と同じような意味のものである」と答えたわけであったが、
さらに彼は「では"モシモシ"に対して相手は何と応えればよろしいのであるか」と訊いてきたので、 「その場合は"ハイハイ"と応えればよろしいのである」と答えたわけだった。

それが間違いのモトだった。
翌朝、病院の職員達と朝の挨拶を交わしていたところ
「モシモシ!ミスターナカヤマ!調子はどうだい!」

…やってしまった。彼は完全に「電話をとった時…」の“電話”を、遠く遠く記憶の遥か彼方へと蹴飛ばして分析してしまったようで、電話無しモシモシ使用法とでも言うか、新たなるモシモシの活用法を誕生させてしまったのである。
いや確かに間違いじゃない。電車で眠り込んでしまって、終着駅に着いたにも拘らずさらに眠り込んでいたりして、「モシモシ、終点ですよ」と言って起こされる場面を見たことがある。この場合の「モシモシ」はかなり新活用法的要素を含んでいる。

でもね、朝一番、「おはようござます!」と元気に挨拶したい時に「モシモシ!」、やはりよろしくない。
間違いはまだ続く。私も私でこの時点で訂正しておけばよかったものを、驚きと脱力と、何より面倒臭さが手伝って、
「ハイハイ!」
と応えてしまった。

その日から彼は完全に勢い付いてしまった。四六時中、とにかく私と会うと「モシモシ」の挨拶から始まってしまう始末。彼の記憶の彼方から、“電話”の二文字を呼び戻すのに相当な時間を要したのであった。

パキスタンにて
なにやらダラダラと書いてしまったけれども、とにかくいずれにしろ、これは「興味」のなせる業である。
興味のチカラは計り知れないものがある。これは言葉の問題だけではなくていろんなことに言えるわけで、とにかく興味を持ちだすと何かと楽しくなってくる。言葉が楽しくなって習慣が楽しくなって、そうすると仕事が楽しくなって、でもって生活が楽しくなってしまって、あぁ、人生って楽しいな。何かと興味の尽きない今日この頃である。