排水路と灌漑路①
用水路と排水路は表裏の存在である。医者の感覚からすれば、用水路工事全体が「巨大な血管外科」と言える。用水路が動脈、排水路が静脈と考えて過たない。灌漑地は、いわば毛細血管の部分に相当する。
人体の静脈が閉塞すると、血液の鬱滞で静脈瘤やバイパスが発生し、組織の浮腫が起きる。時には門脈のように静脈瘤破裂で大出血を起こし、人間は死んでしまう。
灌漑も同様である。わがマルワリード用水路によって村落の水量が増し、確かに灌漑面積は飛躍的に拡がった。しかし、増えた水量に見合うだけの排水路がなければ、低い田畑に余分な水が溜り、湿地帯化する。また水に含まれる塩類などの成分が濃くなり、土地が荒れる。これが「湿害」である。水は高い所から低い所に流れるから、当然、排水路は用水路や灌漑地から低い位置でないと、用を成さない。また、灌漑地自身も緩やかな傾斜がなければ水は淀む。日本の山間部で見られる段々畑はもちろん、平野部でも巧みに高低差をとってある。
おそらく相当な年月と努力を傾けて、幾世代も重ね、数えきれないくらいの洪水と渇水、湿害を経て、現在の農地が作られたであろう。吾々現在の日本人は、遠い昔から営々と続けられた先祖たちの努力の上で生活しているのだ。
さて去る8月3日、マルワリード用水路がガンベリ沙漠を遂に貫通したことは再々報告した。多くの付帯工事が残っているが、最大の仕上げの一つが排水路の整備だ。土地の高低差を見ながら、既存の排水路の拡張工事、小中排水路のルート変更、バイパスの掘削など、点と線ではなく、毛細血管のレベルとなれば田の畔道を含む面の世界の工事である。
この方は地味で根気が要る。報告用の絵にはならぬが、つぎ込むエネルギーは用水路建設に優るとも劣らない。技術上の問題だけでなく、村同士、家同士の利害が絡むので、交渉事がやたらに多い。2009年4月に着手した排水路整備が今、山場を迎えている。
現地事業理解のため、多少報告したい。
2008年10月、マルワリード用水路はO区域(取水口から20km地点)を完了、ガンベリ沙漠岩盤周りのP区域(約1km)が工事の山場を迎えていた。やっとガンベリ沙漠の末端に送水できる準備ができたのである。
(10月8日受信の添付地図参照)
このため、O貯水池から約2㎞の分水路を引き、ガンベリ沙漠低地の灌漑が始まったのが2009年2月のことである。幅3mの中規模の水路で、集中豪雨時の緊急排水路としても機能する予定だった。この「O分水路」沿いは全くの沙漠で、クナール州やローガル州からの移民の集落が多数ある。訳あって故郷から出た彼らは、雨水による耕作だけを頼りに荒れ地に定着、水を1㎞先のシェイワ用水路まで汲みに行く毎日だった。狂喜して歓迎したことは言うまでもない。
作業員として日当が得られたし、灌漑が始まってからは季節がら、スイカが広大な面積に植えられた。その結実が同地を「スイカの名産地」にしたことは既に述べた。その作付面積は200ヘクタールに及び、ジャララバードはもちろん、カブールに至るまで市場を席巻し、貧農たちは思わぬ収入源を得た。
だが、ここで難関が立ちはだかった。更に大きな灌漑地を期待して水を引こうとしたが、立ちすくんだ。広大な沼地が広がっていたのである。一面にアシやススキが生い茂り、遠くから見ると緑地に見えていて、灌漑の成果が上がったと勘違いしていたのだ。楕円状に広がる沼地で、更地に発生したものだ。東西に約2.5㎞、南北に約1.5㎞ほどあった。住民の話では、かなり古いもので、長老が幼い頃には既にあったそうだ。しかし、5年前から急速に拡大し、沼地の水位が約1.0~1.5m上がった。周辺に居住していた農民たち約50家族は、やむを得ず家を捨てた。悪いことに、ガンベリ沙漠の低地がこの沼地に連続していて、標高の高い地が潤えば、その分水没する土地が広がる。沙漠を緑化しても、全ての田畑の水がここに集まる。
用水路開通と同時に、排水路を完成せねばならぬ。考えが足りなかったといわれればその通りだが、ダラエヌールのような渓谷の山岳農村ばかりを相手にしてきた吾々の盲点である。平地における排水は特別な配慮が要るのだ。ガンベリ沙漠横断水路の開通を控え、直ちに着工したのが4月、用水路と同時進行で猛烈な努力が開始された。
沼地の排水路が貧弱なせいだろうと考え、調査して驚くべきことが明らかになった。排水路の歴史は、シェイワ郡の農村の興廃の歴史である。
(つづく)