水路現場写真(2009年10月23日受取)



排水路と灌漑路②

 事の発端は、クナール=ジャララバード間の国道沿いを走る時、シェイワ地域(約1,200ヘクタール)は実りが増え、シギ地域(約1,800ヘクタール)は沼地が点在して増えてゆくのに気づいたことである。



シギ用水路に沿って広がる湿害。何を作付けしても根腐れし、
やがて沼地化する。2009年4月6日


シェイワ郡は大きく2つの地域に分かれる。上流側が狭義のシェイワ村落群でパシャイ民族が多数、下流側はシギ村落群でパシュトゥ民族が多数住んでいる。両者は異なる用水路で潤され、2008年2月に竣工したシェイワ用水路の取水口は、主にパシャイ族の地域を潤すものであった。

 シギ用水路の取水口も低水位で悩み、約5割以上の地域は末端に水が届かず、沙漠化に近かった。それでも、シェイワ用水路の余水がシギ用水路に流れ込み、マルワリード用水路がシギ用水路の取水口近くに大量の送水を行ったので、クナール河ぞいのシギ村低地はまたたく間に潤った。パキスタンに難民化していた村民が帰農、人口が急速に増えた。

 湿地帯拡大が加速したのは、シェイワ用水路の水が増えてからである。もともとシェイワとシギは民族が異なるとはいえ、水系の共有を介して対立感情は殆どなかった。対立感情が増したのは、タリバーン政権が倒れた後である。米軍に協力した北部同盟の一部・パシャイ族の軍閥が実権を握ってからで、シギ村は何かと小さくならざるを得なかった。

 シェイワの農民がシギ村への影響を考慮せず、突然コメの作付けを増やした。トウモロコシに比べ、コメは5倍の水量を必要とする。その水がシギ用水路に流される。当然シギ村のあちこちで湿害が拡大した。

 以上を図式化すると、以下のようになる。





O分水路末端の通称「マッチ棒池」。ここから分水路をめぐらせてスイカの名産地が生まれたのは良かったが・・・・ 2009年3月18日


かつて為政者たちの主な関心は農政であった。湿害対策に対して、
1.排水路の整備、
2.コメとトウモロコシの作付け地域の統制
を積極的に行った。排水路の定期的浚渫を行い、誰もが欲するコメの作付けを順番制にして水量を調整した。古い取水口は摂取量のコントロールが困難で、真夏に押し寄せる洪水と真冬の渇水を考慮し、村落全体の水の出納が統制された。この施策はザヒール=シャーの王政時代からダウード政権に引き継がれた。これが曲がりなりにも機能したのはタリバーン政権までで、2000年の大干ばつ以後、調整が不可能となり、2001年の外国軍の侵略以後は全く関心がはらわれなかった。行政府内でも、「灌漑省」は独立した省として重きをなしていたが、2003年以後は「水・エネルギー省」下の「灌漑局」に格下げされ、農村の困窮は更に無視された。

 吾々PMSも当初気づかず、シェイワ全体の渇水を心配し、2007年10月から6ヶ月をかけて干上がった同取水口を整備、堰板方式で取水量の調整を可能にした。「これでシェイワの水問題は解決した」と信じていた。この時緊急に派遣されて協力したのが旧ワーカーの鈴木学・鈴木祐二で、取水口から遠ざかった自然河道回復、河道全面堰上げを含む大工事だった。



完成間近のシェイワ取水口。2㎞にわたる自然河道の回復工事と堰上げを伴う大工事だった。2008年3月15日に竣工。シェイワ郡一帯の冬の渇水に終止符をうち、かつ夏の洪水を取込まぬよう、堰板で水量が調整できる。
(2008年3月4日撮影)


同取水口を正面から見る。2008年3月5日


ところが、これが裏目に出た。シェイワの水番たちは取水口の水門に備えた摂水量の調整を行わず、コメの作付けが増した分、更に大量の水がシェイワ用水路に注がれたからである。湿地帯はさらに拡大した。下流側のシギ村は渇水時にシェイワからの余水に頼っていたうえ、政治的な力関係で不服を言えなかった。
 だがシェイワの水番だけを責めることはできない。取水口で水量調節をした経験がなかったし、シェイワの地主の要求に従わざるを得ない立場である。より根本的な問題は、村同士の利害関係を調整すべき権威が不在になっていたことだ。

 尤も、吾々が排水路問題に無関心だった訳ではない。話が前後するが、2008年春から夏にかけ、ガンベリ沙漠の灌漑が日程に上っていた。広大な沙漠を潤す水の排出先を求めて、進藤・紺野らのワーカーがガンベリ沙漠とシギ村で測量調査を進めていた。先ずは自然土石流路を利用した排水路で、この方は見通しがつきかけていた。問題は耕地となる沙漠に注がれる水の処理で、この方は調査を開始する矢先、日本人がみな引き揚げてしまい、十分な調査なしに計画を進めざるを得なくなったのである。いや、水路建設班そのものが分解の際に立っていた。
 測量は決して省けない作業である。時には1㎝の誤りが致命的になる。測量だけは緻密さを重んずる日本人ワーカーに任せていた。特に流路はそうで、以後自らの手で全ての測量を行った。しかし、ガンベリ沙漠を一日3往復もすればくたびれてしまい、排水路の調査は後手に回った。
(つづく)

★Dr.T.Nakamura★
中村 哲


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