2003年度毎日農業記録賞地区入賞作品 アフガンで教えられた農業の重み PMS農業指導員 高橋 修 |
(2003年8月) |
少し下流側に足を運ぶと、以前畑であった痕跡を留めているものの延々と不毛の農地が広がっている。 紛れもなく砂漠そのものである。更にその先には大小の岩が転がる荒涼とした大地が果てしなく続いている。 子供の頃に聞かされた“賽の河原”とはこのような風景を指すのだろうかと想像したりする。 当然のことであるが、人の姿も人家も緑の有無と比例している。 緑が甦った集落では、農作業に励む人々と子供達の遊ぶ姿を見ることができる。 しかし一歩砂漠化した地帯に足を踏み入れれば人の姿は稀となり、また家屋は崩れ落ちゴーストタウンとなっている。 なぜ砂漠化したのか。もともとこの渓谷は、冬季、ヒマラヤ山脈西方に続く カラコルム・ヒンズークシュ山脈に積もった雪が河川水となり、地下水となって農地を潤す緑豊かな農村であった。 しかし地球温暖化の影響か、年々ヒンズークシュ山脈の積雪量が減少し、それにつれて水源が枯渇し始め、 追い討ちをかけるように、ソビエトの侵略と引き続く20数年に及ぶ内戦が水利システムの崩壊に拍車をかけた。 その上に、4年続きの記録的な大旱魃が砂漠化を決定的なものとした。 更にその上に、アメリカ、イギリスによる空爆が重なり、人々は農地とムラに見切りをつけ、 難民となってパキスタンなどに逃れたためである。 その数は、渓谷の総人口4万数千人の中で2万人とも2万5千人とも言われている。 半数の人々が住み慣れたムラを捨てる状況は想像もできない。まさに悲惨と言う他はない。 人間は生死の局面に立ったとき心が荒む。因果関係は詳しく分からないが、 自然の猛威による農業の崩壊が大国の侵略と内戦を招いたのではとの思いが深い。 逆に大国のエゴと無意味な内戦が砂漠化を助長した一面があるようにも感じる。 アフガンの農業には日本とは次元の異なる重みがある。 日本であれば“農業は収入が少ないので他産業に”程度の重みであるのに対し、 アフガンの農業は“その日の命を永らえる糧として”の位置づけである。 多くのアフガンの人々は、食べ物を求め難民となって生き延びるか、 座して餓死するかの局面に立たされてきたに違いない。アフガンの農業には、 収量・収入の多寡では到底量ることができない、切羽詰まった重みがある。 去年から今年にかけて、砂漠の集落になぜ農作物が育って来たのであろうか。 私はここでペシャワール会(NGO)の活動に触れておかなければならない。 ペシャワール会は、1983年に中村哲医師がパキスタンで行っている医療活動を支援する目的で結成され、 以後アフガニスタンを含めて、「誰も行かないところに我々のニーズがある」をモットーに、 内戦・空爆下においても医療活動、水源確保、食糧支援の活動を展開してきた。
その上にペシャワール会では、今年3月から新たにクナール川から延長16キロの用水路を掘削するプロジェクトを開始した。 ダラエヌール渓谷の最下流周辺・千数百ヘクタールを灌漑し、10万人の食糧を生産する壮大な計画である。 現在、内戦時に敵味方に分かれて戦った農家数百人が、過去の怨讐を超え、協力しながら突貫工事に携わっている。 ペシャワール会では、2002年3月から “緑の大地計画”と名付けて農業計画の活動を展開してきた。 目的は、掘削された水源を活用して適作物の栽培と改良技術を普及し、食糧確保・農村復興を進めることにある。 農業計画の核は、ダラエヌール渓谷の下流域と中流域の2カ所に設けたパイロットファームである。 このうち、ダラエヌール渓谷下流域のパイロットファームは、前述の灌漑用井戸5カ所が掘削された地域である。 もう1カ所の中流域のパイロットファームは、曲がりなりにもカレーズによって灌漑できる圃場である。
私たちはパイロットファームで、現地の慣行と既存技術を尊重し、 また現地の資源と自然条件を最大限活用しながら新しい作物と改良技術を展示してきた。 一部日本とパキスタンから新しい作物とか新しい技術を持ち込んだが、その場合でも、現地適応性を精査し、 また農家の意向を尊重して、現地農家のレベルに合わせるよう工夫してきた。
また展示技術は、地力増強対策と節水技術が中心である。 前者については地域の有機物資源が極めて乏しいために緑肥作物を作付体系に組み入れ、 深耕の効果と合わせて展示している。後者については、畦型を改良して必要最小限の水量で栽培する技術を取り上げている。 ただでさえ乏しい水をかけ流し灌漑する仕来りが強いためである。 この他、両方のパイロットファームともサイレージ作りに挑戦してきた。 冬季に不足する乳牛の餌を確保するために、地面に掘った穴に飼料作物を裁断して詰め込み、 乳酸発酵させて蓄える作業である。冬季の搾乳を可能にして、栄養失調と乳幼児の死亡率を減らしたいと願っている。
幸い小麦と飼料作物については予想をはるかに超える生育であった。 特に渓谷下流域のパイロットファームでは、灌漑による効果はもちろんであるが、 農家の耕作再開に対する喜びが不毛の砂漠を緑の大地に甦らせてきたと感じている。 また地力増強対策と節水技術も少しずつ定着し始めた。サイレージ作りも初めてとしてはまずまずの出来であった。 ある農家の「今年の冬はミルクが出て家族に飲ませることができた」、 「これで難民となっている家族を呼び返すことができる」、「来年この作物を作ってみたいので種が欲しい」 などの言葉に、彼らの喜びと関心が如実に表れている。 しかし困難と失敗も多かった。例えば、夏45℃に及ぶ高温下での栽培技術、 アルカリ土壌における栽培技術など、かつて経験したことのない課題に現在も四苦八苦を続けている。 また大発生する害虫の防除対策も決め手となる技術が見つかっていない。参考書には載っていても、 常に、農薬はもちろん肥料も思うように買えない農家の現実が立ちはだかり、全体としては、 今なお試行錯誤の域を出ていないと自らを戒めている。 私は京都府職員36年の間、農業普及の仕事に携わらせていただいた。退職後も約14年間、 発展途上国の農業普及改善に係わってきた。 この50年・半世紀の間、国内外の多くの方々に真面目に農業の重要性を説いてきたつもりである。 しかしその後アフガンで、農業は、生命を維持し、ムラに住み続け、心の安らぎと希望・平和をもたらす源である、との生々しい証を突きつけられた。 ショックであった。アフガン以前の私は、果たして、突き詰めた信念に基づいて農業の重要性を訴えていたかどうか自信が無くなってきた。 経済的な価値観のみで語っていなかったか、逆に精神論のみではなかったか、 また、口先だけではなかったかと慚愧の念がよぎる。少なくともかなり甘さがあったことは否定できない。 アフガンの農業に触れて思い出したことが一つある。子供の頃、祖母が私を野山へ連れて行き、 「この木の芽は食べられる」、「この彼岸花の根は摺りおろして水に晒せばメリケン粉(澱粉の意味)が取れる」など、 いろいろ飢饉の時の知恵を与えてくれた。アフガンで教えられたムラで生き続けることの厳しさと、 子供の頃、祖母が教えてくれたこととどこか似通っていると感じ、故郷の野山と少年時代のことを懐かしく思い出している。
また国内では、農業の重要性が再認識される一助になることを願い、 飽食の中でナンセンス・日本では起こり得ないことと言われても、あえてアフガン農業の紹介を続けていきたい。 政治、経済、教育など日本全体に奢りの風潮が蔓延し、限りなく農と食が軽視される昨今である。 しかし現実には、地球規模で異常気象が頻発し、日本も今年は間違いなく相当の不作になると懸念される。 また一部の報道にあるように、日本がもし戦争に巻き込まれれば食糧輸入もままならないであろう。 多数の国内難民が生じた1945年前後、日本の敗戦当時のことを思い返してみようではないか。 アフガンの悲惨が日本で再現しないと誰が言い切れるであろうかと思う。 これからもアフガンで教えられた本来あるべき農業の位置づけを訴え続けていきたいと考えている。 |