水路現場写真(2009年5月8日受取)


カマ取水口Ⅳ


「ブディアライ組」

 ヤールモハマドは40歳前後、ブディアライ村のチームを統率して、これまであらゆる作業をこなしてきた。彼らの大半が元難民で、ペシャワールのキャンプで散々苦労を嘗めた。村に戻ったのは8年前、「ダラエヌールで水が出た」という話を聞いてからである。

 ソ連軍占領中、ブディアライ村からクナール州にかけて、空爆による荒廃は著しいものがあった。1990年に訪れた同地の状態は、約50~100m毎に直径5m前後のクレーターがあり、家屋の殆んどが破壊されていた。絨毯爆撃の跡である。地元抵抗勢力は、上流のパシャイ部族の村々に立てこもり、果敢に抗戦をつづけていた。本来のムジャヘディン・ゲリラは農民たちの自発的抵抗であった。しかし、1984年にアメリカが武器供与法案を可決、政治党派に大量の武器が流されると、次第に傭兵化が進み、彼らは裏切られた。

 ダラエヌールに拠る勢力は、クナール州方面から影響を持ち始めた「アラブ・アフガン(後にアルカイダと呼ばれる)」とも抗争し、本来の抵抗精神は影をひそめていった。故郷と家族を守るために銃をとった農民たちは政治に裏切られ、悲哀をかみしめて沈黙し、ひたすらペシャワールで生き延びねばならなかった。

 1992年にPMS(当時JAMS)がダラエヌール診療所を開いたとき、ブディアライ村だけが荒廃していたのは一重に戦火による。それでも村の復興は進められていたが、1999年の大干ばつが来ると、2家族を除いて全て再難民化した。

 2003年3月、用水路工事が始まると、ブディアライ村の農民たちが大挙して参加し、次第に中核的な存在となった。これは、農地の回復が進まず、日雇いの収入に頼らざるを得なかったからである。また、2007年に第一期工事が完成した後も、用水路はブディアライ村の下手を通り、同村は恩恵に浴さなかった。このような事情で、勢い熟練した作業員の主力を同村が輩出することになったのである。



ブディアライ・チーム。ヤールモハマッドは常に先頭で働く。
ジャリババ取水口。(2007年1月15日)

 一般に彼らは勤勉・実直であり、忍耐強い。取水口らの重要な工事は、これら「ブディアライ組」が指名された。このため、マルワリード用水路、カマ、ベスード、シェイワの対岸工事は全て彼らの労働を頼りに行われたのである。チームのまとまりが良いのは、血縁で固められ、有力な家長でもあるヤールモハマッドの有能な指導で統率されているからである。
 対岸の根固め護岸工事は、12月15日からわずか2週間で勝負がついた。


水門の建設

 カマ取水口工事が始まった直後、PMSはマドラサ建設とガンベリ岩盤周りの工事に忙殺されていた。特にコンクリート構造物は絶対的な人員不足だった。設計から施工全てを自分ひとりでとり仕切るので、戦線をカマにまで広げると心身共に持たない。そこで、思い切って工事の下請け指揮をヤールモハマッドとモクタール運転手に任せ、堰上げ工事など、重要な箇所だけ自分で行った。運転手のモクタールの方は、私のやり方を熟知していて、大きく外れた工事をしない。しかし、作業の方法を大幅に単純化し、彼らの得意な蛇篭工を駆使した構造物に設計しなおした。

 コンクリート構造物で最も重要なのは、基礎工事である。特に取水口は夏の激流をまともに受ける。玉石の河原に設置するのは特にリスクが高い。この点では、自然岩盤をくりぬいて水門を置く筑後川の山田堰は手本にできない。砂利の河原に水門が設置された大石堰がヒントを与えてくれる。

  旧大石堰の図をもう一度見ていただきたい。圧倒的な物量で河原に巨石を敷きつめ、洗掘を防いでいる。急流を対岸の岩盤側に置いて、緩やかな流れを砂利の河原側に作っている。先述の「舟とおし」も、この緩流側に置かれている。吾々もこれを採用し、巨石の山を築いて、水門の防波堤とした。


 水門下部の基礎は、粒径の大きな玉石と少量の砂が混じってできた層である。これにセメントを適量加えれば、骨材のしっかりしたコンクリートと化す。そこで、約2mの深さで約17m四方を掘り、掘出した砂利をそのままコンクリートの素材として埋め戻した。その上にさらに二段の蛇篭列を二重に敷いて高さ1.5m、幅1.0mの溝を作り、蛇篭壁を型枠として頑丈な鉄筋を入れてコンクリートの梁とし、この上に更に厚さ70cmの鉄筋コンクリート床面を造成、水門構造を連続して建設した。(つづく)


建設中の取水門。蛇篭を使った型枠と巨石による防御壁。
この下は2m厚のコンクリートが打ってある。(2009年1月3日)


★Dr.T.Nakamura★
中村 哲


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