アフガン東部の干ばつの現状と対策
東部アフガン農村から見る一考察

PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス=平和医療団日本)総院長
ペシャワール会現地代表 中村哲
ペシャワール会報121号より
(2014年10月1日)

PMSが取水方式にこだわるわけ
アフガン東部の乾燥化は止まる様子がありません。2000年夏以来の大干ばつは、決して一度のものでなく、常に動揺しながら進行しています。このことがアフガン農民にとって死活問題であることは、繰返し訴えてきました。過去WHO(世界保健機関)、USAID(米国国際開発庁)、WFP(世界食糧計画)らが散発的に注意を喚起しましたが、正確な統計や調査が乏しい上に、戦争や政治のように話題性がありません。慢性的な気候変化(一般的に変動と言うが、、旧に復することが難しい状態であるため、あえて変化と記す)はニュースの死角で、多くの人々にとって死活問題であるにも拘らず、その重大性の割に今後も殆ど話題にならないだろうと思います。
以下、2000年から2014年にかけて、東部アフガンのジャララバード周辺で観察された事態をもとに、干ばつの機序を推測し、PMSがとってきた対策を述べ、改めて事の重大さを理解する一助とします。もとより東部アフガンに限られた局面で、素人の推測ですから、専門の方々初め、大方の助言を乞いたいと思います。
ナンガラハル州における干ばつ地帯(2000〜2014年)▼ 同州では、大きく二つの地域が深刻な影響を受けました。
(1)スピンガル山脈北麓:ホギャニ、ソルフロド、ロダト、チャプラハル、アチン、トルハムの各郡(人口約50〜60万人以上)

(2)ダラエヌール渓谷下流域:カラヒシャイ、アムラ、ソリジ、ブディアライの各村(人口約2〜3万人)、および周辺の村落:シギ、クナデイ、スランプール、シェトラウ(人口約5万人以上)

両者に共通するのは、以下の点です。
1. 標高4000メートル前後の山脈を戴き、標高1500メートル以下の山麓地帯であること。
2. 中小河川からのジューイと呼ばれる小水路、またはカレーズという地下水利用の灌漑で潤されること。

今考えると、予兆は1990年代後半から進む井戸水の涸渇でした。ダラエヌール、ダラエピーチのPMS診療所が井戸の再生を繰返しています。水位下降に抗しえず、離村が本格化したのが2000年以降でした。地下水位は場所によって異なりますが、総じて下降を続けました。水位が低下したまま安定してきたのは2004年頃からでしたが、ダラエヌールを例外に、旧に復することは遂にありませんでした。ソルフロド郡、アチン郡では地下80〜100メートルに留まっているものさえあります。こうして2006年までに、同地域で1600ヵ所の飲料水源を確保したものの、大半は三回、四回と再掘削を繰返してきました。

地下水位をかなり正確に、目に見える形で反映するのがカレーズです。PMSはダラエヌール渓谷で38ヵ所のカレーズを復活させましたが、井戸と同様、例外なく何回もの作業が繰返されています。カルザイ政権が2006年に「飲料以外の地下水利用禁止を布告しましたが、当時の危機感が現れていると思います。本格的な農業用水は、当面大河川からの取水に依らざるを得ないと判断されました。

2002年に緑の大地計画の第一弾として、ダラエヌール下流域とシェイワ郡の広範な地域を潤す計画が立案されました。これがマルワリード用水路(約25キロメートル)の建設です。ジューイやカレーズの地下水は、もう望みがないと思ったのです。だが、ここでも難しい問題に出くわしました。もともと地下水でなく、大河川のクナール河、カブール河本川から水を得ていた地域でも、灌漑用水の欠乏に喘いでいたのです。河の水量は豊富でも、取水方法に問題がありました。

大河川の水に頼る地域では、渇水だけでなく洪水の来襲があります。近年の上安定な気象は、急激な雪解けで初夏に洪水が押し寄せたのち、晩秋の寒さがやって来ると極端な低水位となります。夏冬の水位差が著しくなり、旧来の方式が通用しなくなっていました。

私たちは初めて、気候変化の及ぼす深刻な影響を悟りました。中小河川沿いでは地下水位の低下、大河川沿いでは洪水と渇水の同居で、水利用が困難になっていたからです。

干ばつの発生機序
温暖化と雪線上昇
推測されるのは世界的な気候変化の影響です。ヒンズークシ山脈の夏の雪線上昇は、隣接するカラコルム・ヒマラヤ山脈でも、ずっと前から観察されています。例えばチトラールに至るロワリ峠(標高3500メートル)では、1978年まで真夏でも10メートル以上の積雪を越えねばなりませんでしたが、徐々に雪が薄くなり、車が通過できるようになりました。雪線は2008年までに標高4000メートル以上、30年間で実に500メートル以上もの上昇が起きています。

これを裏付けるように、前後してチトラールで著しい氷河の後退が起きました。場所によっては崩れた氷河が河川を塞いで水が溢れ、地滑りなどの原因となりました(1999年)。似たようなことが、隣のカラコルム山脈でも起きていま す。フンザ地方で氷河の崩落で水害が起き、もうずいぶん前から、バルトロ氷河の後退、パスー氷河の消失、ナンガパルバットの雪線上昇が登山家たちを驚かせました。

単なる降雪・降雨の減少だけとも考えにくいのです。2000年のように、半年近くも雨がない年があるかと思えば、2010年、2013年のように、長雨が数ヵ月続くこともあります。平均すれば絶対的な降雨・降雪量はそれ程減っていない印象を受けます。インド洋から水をもたらすアジア・モンスーンの全貌については詳しく知りませんが、アフガン東部(ヒンズークシ山脈南東部)に限って言えば、降雨が確かに上安定ではあっても、それが近年突然起きるようになったという確証はありません。

高気温と貯水・保水力の低下
高気温が、より直接の影響を与えると私は考えます。急な気温上昇が起きると、それまで徐々に解けていた雪が一挙に流れ下り、各地の中小河川で洪水を起します。五月から八月にかけて急激な増水が大河川で見られ、近年記録的な洪水が頻発しています。一方、気温が下がり始める秋、高山で氷結が始まると、急速に河川の水位が低下します。かつては初冬までかかって解けていた雪が、初秋までになくなってしまうのです。(下図1.2.)

図1. アフガニスタンの水循環・水利用(気候変化前)

図2. 気候変化の影響


高気温はまた、夏の夕立を少なくします。地表からの蒸散水は、上昇気流に混じって上空で冷やされ、夕立となって降り、局地の水循環に大きな役割を果たして来ました。しかし最近の傾向は、雨雲(積乱雲)がより高空に留まるようになり、他地域に流れていきます。すると、降雨面積が少なくてまばらになります。降れば激しい集中豪雨で局地的に大被害を起こし、他方で降らない地域は乾燥してしまいます。つまり、広範囲に小分けされて降っていた夕立が、限られた地域に集中して鉄砲水や洪水となって、一挙に地表から消え去ることを意味します。
この傾向は日本でも同じですが、絶対的降雨量が極端に少ないアフガニスタンでは、地域によっては致命的な乾燥化をもたらします。 また、森林に覆われる日本列島と対照的に、強い陽ざしが直接、むき出しの岩盤や地面を更に温めて夜間まで冷えず、地表の結露を妨げ、乾燥化を加速します。

こうした悪循環で、地表に水が留まる時間が短くなり、地下に浸透する量が減少します。これを、地域全体の貯水力・保水力の低下と言い換えてもよいでしょう。

ナンガラハル州では、スピンガル山脈の北麓、ケシュマンド山系ダラエヌール渓谷で、この状態が顕著です。おそらく、他の州でも似たようなことが起きているのではないかと推測しています。

中小河川沿い地域の問題と対策
雪線の上昇と乾燥化
東部アフガンで中小河川流域というとき、源流の高山を標高4500メートル辺りで分けて考えるのが妥当だと思います。スピンガル山系は独立した山脈、ケシュマンド山系はヒンズークシ山脈の支脈ですが、いずれも最高峰は4500メートル前後の連山です。もっと北にあるチトラールやヌーリスタンは6000〜7000メートル級の山々を源流とします。とりあえず問題になるのは、4500メートル以下の高山です。つまり、夏の雪線の標高です。例外はありますが、それ以下だと規模の小さい涸れ川となり、夏の集中豪雨の時だけ鉄砲水を流します。

当然ですが、低い高山は、夏季に雪が完全に解けた時点で川が涸れます。多少残っていても氷結が始まると、たちまち途切れてしまいます。こうした地域の農耕は、地下水(カレーズ)、雨水と結露に依存します。以前ならカレーズがなくとも、雨水・結露だけで麦作ができる地域もありました。たとい一時的に地表が乾いても、緩やかな雪解けが地下水脈の高さ(浸潤線)を上げ、地下を湿らせて地面の冷却に一役買っていました。少雨でも地面の湿り気が長く残り、小麦を収穫できる機会がありました。しかし近年、気候変化でそれができなくなっています。

農作物だけでなく、植物全体が影響を受けます。例えば、ソルフロド郡は以前、柑橘類の一大産地でした。特にオレンジが有吊で、花の咲く春分の頃、オレンジ会というパシュトゥ語の詩会が開かれていた程です。しかし、この10年で柑橘類が急速に枯死してゆき、2014年までには絶滅に近い状態となっています。

もちろん柑橘類だけでなく、他の自然植生もそうです。かつて雪線付近にベルト状に広がっていたヒマラヤスギやクルミの自然林が薄くなり、河沿いの小平野で見られたシーシャムなどの樹木が激減しました。樹林帯が土地の保水力を増すことは、日本でも良く知られています。自然林・人工林を問わず、樹木の激減は保水力を更に低下させ、土地乾燥の悪循環を作っています。先に述べた夕立や結露の減少も影響していると思います。

山麓地帯と山間部の高地
こうした地域が生き残るには、二つの方法しかないと私は思います。@大河川に近い平野であればその上流からの取水、A標高がより高い地域なら多数の貯水池を作ることです。樹林造成は何れの場合でも必須です。

このうち即効性があるのは、@です。マルワリード用水路の建設がそうでした。しかし、それでも潤せぬ高地は、A以外に考えられません。

貯水池の効用と可能性
貯水池は単に用水を貯めるだけではありません。中小河川の水を引き込むことによって、地表水の滞留時間を延ばせます。例えば、一回の集中豪雨の水が数時間、数日の短期で下り去るとします。いくら降水量が多くとも、水が土に浸み込む時間のゆとりを与えません。あっという間に地表から消えてしまいます。

だが、沢山のため池があれば、かなりの水が池に引き込まれて地表に留まり、地下に浸透水を送ります。たとい池が乾いても、その分地下水になって地中の浸潤線を上げることになります。滞留水の総量が増えれば増えるほど、流下時間を延ばして地下水が増します。数日で消える一回の地表水を数週間かけて下るようにすれば、土地の湿潤性が上がってきます。即ち貯水力・保水力を高めるということです。

このことは、ガンベリ沙漠の開拓で経験しました。マルワリード用水路は山麓沿いを這うように作られ、大小の谷を横切ります。当然、激しい鉄砲水にさらされます。このため、小さな谷は貯水池を作り、大きな谷はサイフォンをくぐらせて通しました。ガンベリ沙漠では、岩盤沿いに大きな貯水池が防災用にいくつも建設されました。(写真@A)この沙漠は、単に雨が少ないから荒野になったのではなく、時折襲う洪水でも人が住めなかったのです。

写真@ ガンベリ砂漠の岩盤沿いのQ3貯水池(2009年6月)

写真A 池周囲と護岸壁4段に植樹した同貯水池(2014年5月)

すると面白いことが起きました。貯水池は谷を堰き止めて作り、構造は日本の堤と同じです。ガンベリ沙漠では、地上から平均約15メートルの高さに池が並んでいます。大きいものは350メートルの堤防で三万m2の池の広さがあり、水深5〜7メートルです。堤防については別の機会に述べますが、広い範囲で池底から水が浸みこみ、堤防外法の根方から少しずつ湧き出してきました。造成直後、一時的に湿地化する所さえあったのです。落差のために、浸透水が地表に現れて見えた訳です。これを湧水や泉と呼んでいます。この浸透は、池や水路なら当然起きるのですが、同一平面上にあれば地下の現象ですから、普通目に見えません。

おそらく、この浸透が用水路沿いで広範囲に生じ、井戸水の高さが急激に増しました。また、次第に地中の湿った土のレベル(浸潤線)が上がり、わずかな降雨でもいつまでも土地の湿り気が残るようになり、草地が急速に広がったのです。もちろん、用水路からの灌水量は年々少なくて済むようになりました。それまで半死半生だった樹木も、生き生きと育ち始めました。

中小河川に数多くの堰を設けることも、同じ効果を生みます。日本で至る所に見られる砂防ダムは本来、土砂被害を防ぐ目的で作られ、国内では賛否があります。だがアフガンでは、この技術を使って地表水の滞留時間を延ばす効果が期待できると思います。言い換えると、極端な急流を緩やかな流れに変え、地下に水が浸透する余裕を与えることです。

地下水位が増せば、涸れたカレーズが復活することは十分にあり得ると思います。根気のいる仕事ですが、植樹と組み合わせ、やってみる価値はあると思います。先進国のように大きなダム建設が資金さえあれば手っ取り早いのでしょうが、これには建設に伴う土地の買収、維持管理、環境や安全、隣の国との紛争など、様々な問題があり、現地に向いているとは思えません。小規模かつ維持容易なものを数多くが最善だと思えます。

大河川沿いの問題とPMS取水方式
従来式が追いつかぬ気候変化
今PMSが積極的に取り組んでいるのが大河川からの取水です。地勢上、主にクナール河からのものです。問題は、洪水被害を最小限に抑え、安定した取水量をいかに確保するかに尽きます。クナール河はヒンズークシ山脈南東の山麓から水を集め、ジャララバードでカブール河本川に注ぎます。カブール河は国境を越えてパキスタンのカイバル・パクトゥンクワ州(旧北西辺境州)に至り、アトックというところで、カラコルム山脈を源流とするインダス河本川と合流します。

クナール河の流域面積は、福岡県・筑後川の約三倍以上、水量もそれに比例する大河川です。夏冬の差が激しく、厳冬期で毎秒500m以下、夏期で毎秒3千〜4千以上になります。気候変化によって、この差がますます激しくなっていることは先に述べた通りですが、旧来の取水技術では間に合わなくなってきているのは確かです。夏期、河の水かさが増え過ぎると、洪水が用水路内に流入し、畑や民家を押し流してしまいます。逆に冬期、水かさが下がり過ぎると取水できず、主食の小麦収穫に大打撃を与えます。

かつて東部アフガンでは、真冬に土嚢や丸太を組み合わせ、突堤のように取水口から張り出し、そこだけ堰き上げて取水していました。もちろん夏は流されますが、簡単な構造なので、毎年作ればよかったのです。ところが近年、冬の異常な低水位で、この方法では水がとれなくなっている場所が増えています。

手を加えて却って悪化する場合が多い
これに拍車をかけたのが、重機やダンプカーなどによる物量動員です。物量動員が悪いわけではありません。その方法です。旧来の突堤方式をやたらに強化しても、事態は却って悪化します。丸太や土嚢の代わりに巨石やコンクリートの突堤を置けば、確かに流され難くはなりますが、強靭な突堤の先端で激しい渦流が発生、川底を抉って深くしてしまいます(洗掘による河床低下)。その結果、次の冬には取水口付近の水位が更に下がり、突堤を伸ばすか、別の場所から新たな取水場所を作らねばならなくなります。

川際で取水量を調整
もう一つ重要な点は、川際で取水量を調整する着想が現地に乏しかったことです。もっとも村民たち自身で取水門を作るには財政的にも無理でした。そこで導入されていたのが、過剰水の排水設備です。まるで自然の河の分流のように、一旦取水口で河の水を全てとりこみ、過剰な水を中途で捨てて排水する考えです。このため、川に近い主幹用水路の川側土手の一部を低くしておいて、水路の水かさが増せば、自動的に溢れて落ちるという仕組みです。(下図3.)

図3. PMS方式と従来方式の取水システム

着想は悪くないのですが、予想された水量が取水口に流れ込むとは限りません。洪水が流れ込むと、ひとたまりもありません。普通、この排水設備は村落から離れた場所にありますが、よほど上手に作らないと危険です。
例えば2013年の大洪水で、シギ取水口が流失したことがあります。洪水レベルの水位がそのまま用水路内に流入、取水口から約2・7キロメートルまで侵入し、数十ヘクタールの農地もろとも河の一部になって消滅してしまいました。同じことが今秋手がけようとするベスード第二堰で起こり、多くの被災者を出しています。おそらく同様なことが、各地で起きてきたのだと思います。適切な水門で取水量を調整するのが日本では普通ですが、まだアフガンで一般的ではないのです。

取水量の調節と土砂流入を防ぐ工夫
川際で取水量を調整する努力は皆無ではありませんでした。場所によってちらほら見られます。しかし、全て手動のスライド式水門です。例えば、旧カマ堰があります。私たちが手掛ける2008年以前に、旧ソ連、アラブ系団体、PRT(米軍・地方復興チーム)などが試みています。しかし、どれも上成功に終わりました。堰き上げ方法に上備があると共に、土砂流入を抑えきれなかったのです。また、真夏に水かさが上がると、高い水圧で開閉が難しく、洪水流入を避けることができませんでした。おそらく、欧米やロシアではこのような急流河川からの取水が少なく、考えつきにくかったこともあると思います。

クナール河は夏期、大量の土砂を上流から運んできます。その量は日本の比ではありません。水路の条件次第では、たちまち泥土で埋めつぶされてしまいます。土砂は当然、河底に近いほど多く、上澄みになるほど少なくなります。スライド門は底水を引き入れるので、大量の土砂も一緒に入ってきます。

また、水門部の水深が3メートル、4メートルともなれば、高い水圧が鉄板にかかり、スライド式門の開閉が手動では困難となります。日本ではスライド式が大部分ですが、ほとんどが油圧・電動式で、コンピューター制御です。しかし現地には、まともに電気を使用できる農村がないので、現状では上向きだと言えます。

以上のような状態を考慮して、PMSでは二重堰板方式が最適だとの結論です。これは水門を二列に並べ、川の水位と必要量に応じて、堰板で調整するものです。交代で水門番を置き、急な増水の時や農事に応じ、人力で堰板の上げ下ろしを行うものです。二列にしたのは、大洪水で河の水位が増すと、水圧で堰板が折れる恐れがあるからで、階段状に水を落とし、川に面する水門の下段にかかる水圧を減殺できます。(写真3.4.)

写真3. 2列の堰板方式取水門・カマ第二

写真4. 堰板

それでも粒子の細かい土砂の流入は防ぎきれません。そこで、取水門直前の堰に溝を設け(土砂吐き)、さらに急傾斜の主幹水路を通して沈砂池に導きます。池のスライド門で底水を低い位置から排水して河に戻し、送水門を再び堰板方式にして、上水を人里に送ります。こうすることで、土砂堆積を相当抑えることが出来るようになりました。(写真5.6.7.8.)

写真5. 調整池(沈砂池)

写真6. 日本版 堰板とスライド式水門

写真7. 調整池からの自動浚渫システム

写真8. 沈砂池に堆積した砂の排出

アフガンに適した技術 --- 斜め堰
さて、取水堰の問題です。既に述べたように、従来の堰き上げ方式が気候変化に追いつかず、単に突堤構造をやたらに強固にしても、却って被害を増すことを強調してきました。実は、この取水堰こそが最大の難関、かつ最も本質的なものでした。どんなに用水路が立派でも、取水できないと、「血液が流れない血管と同じだからです。

取水しやすい場所が同時に洪水に襲われやすい場所であることは、過去多くの人々が体験してきました。欲望と安全は両立しません。洪水を防ぎながら、欲しいだけ水を取るというのは、相矛盾することを同時に得ようとする虫のいい話なのです。

この難題を見事に解決して自然と折り合いをつけたのが、日本近世に確立した治水技術、石張り式斜め堰です。現在日本では次々とコンクリートの直角堰に替えられていきましたが、九州では一つだけ、山田堰という堰が、筑後川流域(福岡県朝倉市)に貴重な遺産として残っています(写真9)。1790年に現在の形で完成し、今も現役です。
写真9. 山田堰
郷土史によれば、先人たちも飢饉や洪水に苦しみ、突堤型の堰先端に発生する洗掘→河床の低下に悩んでいました。完成に至るまでの経過を読むと、全く今のアフガンと同様です。要は河道全体に巨礫を敷き詰めて堰き上げ、石張りの平面形状を上流側に向けて斜めに取り、越流幅をできるだけ広くすることです。また、洪水時の負荷を避けるため、上流側から河道を分割して傍流を作ります。PMSではその模倣を目指し、試行錯誤を繰返してきました。詳細は割愛しますが、この石張り式斜め堰がPMS方式の重要部分として定着しました。

体系的な取水システムの提唱
こうして、一連のPMS取水システムは、JICA=PMS共同事業として2011年カマ第二堰で最初に実現しました。
1. 取水堰(斜め堰による河道全面堰き上げ、取水門前の土砂吐き、河道分 割による堰体の保護、対岸の護岸)
2. 取水門(三連または四連、間口幅総計を広くとる二重堰板方式)
3. 主幹水路(柳枝工・蛇籠工の護岸、土砂を押し流せる傾斜のライニング)(写真12)
4. 沈砂池(堰板方式の送水門とスライド式排水門を装備)
それまで、マルワリード堰、シェイワ堰、カマ第一堰が完成してはいましたが、体系的に設計されたのは初めてのものでした。同郡は耕地面積約七千ヘクタール、人口30万人と言われ、かつてソルフロド郡と並ぶ最大の穀倉でした。しかし、夏の洪水と冬の渇水で農業生産が致命的な打撃を受けていたのです。人口の半分が難民化したと言います。当初、カマ堰は絶対に成功しないと信ぜられ、農民は諦めていましたが、この取水方式でたちまち耕地がよみがえり、この三年間で殆どが帰農しています。(写真10)
写真10. カマ取水堰

完成度を増した取水堰
その後、ベスード第一堰(2012年)、カシコート=マルワリード連続堰(2014年)が、次々と建設されていきました。この間、2010年、2013年と記録的な洪水に見舞われて、これらの堰も多少の改修を余儀なくされましたが、基本構造はよく保たれ、逆に強靭さが実証されたと思います。最新のカシコート連続堰は、クナール河全体を堰き上げ、堰幅505メートル、石張り面積2万5千m2、完成度の高いものとなりました。(写真11)

写真11. 連続堰

こうしてジャララバード北部三郡、シェイワ・カマ・ベスードは、隈なく安定灌漑の恩恵が行き届こうとしています。次の標的であるベスード第二堰(ミラーン)と周辺の小取水堰が成ると、緑の大地計画で掲げたジャララバード北部穀倉地帯の復活が完成に近づきます。実現すれば、耕地面積1万6,500ヘクタール、60数万農民の生活を保障し、余剰生産物をアフガン国内に送ることが夢でなくなります。

最も経済的な投資− 干ばつと難民、干ばつと治安
耕せない農民の現実、水がもたらす安定と恵み
私たちの作業地、カマ郡・ベスード郡・シェイワ郡は、他の地域に比べて抜群に治安が良い所です。おそらく、安定灌漑で農地がよみがえり、食べ物を自給できるようになった事と無関係ではないと思います。対照的に、ジャララバード南部の穀倉地帯(スピンガル山麓)は渇水で自給できず、多くの失業者を生み出しました。現金収入を求めて、やむを得ず兵士、警察官、武装勢力の傭兵になる者が後を絶ちません。治安は最悪になりました。つい十数年前まで、最も民心が温和で争いが少ない地域だったのです。

多くの者が職を求めて、ジャララバードやカブールの市街をさまよい、場合によっては国外に難民化しますが、満足な職にありつける人はごく僅かです。現金収入を得るため、やむを得ず麻薬や売春などの犯罪に手を染める者も少なくありません。こうして刹那的な風潮がはびこって風紀が乱れ、地域安定の要だった伝統的な農村共同体の秩序も崩れていきます。治安悪化の背景は、単に過激思想だとか、武器の流入、外国軍の侵入だけではないと考えます。

運よく時流に乗り、都市生活を堪能できる人々はごく一握りです。大都市では派手なショッピング・モールができ、乗用車が増え、テレビが普及し、一見華やかな生活が目につくようになっていますが、その背後に膨大な貧困層が飢餓すれすれの生活を送っていることは、日本で余り知られてないと思います。

水利施設の建設は、確かにお金も時間もかかります。しかし、その後の恩恵を考えると計り知れないものがあります。例えば、ジャララバードで小麦1キロの値段は約40〜50円です。年間一人当たりの必要量(アフガン政府基準)が約150キロですから、年間八千円前後の支出になります。農村の家族数は普通10人を下ることがないので、家計から年間八万円くらいが主食だけに消える勘定です。でも、これだけではカロリーが足りないので、コメやトウモロコシ、豆類や肉などを加えると、年間15〜20万円の食費となります。

普通の農民が農業以外の仕事をするのは案外限られていて、軍閥や武装組織の傭兵、国軍兵士、警察官、現場作業員、リキシャの運転手、バザールの零細小売などです。現場作業員の場合、日当が450〜500円(ジャララバード)、運よく年間300日働けても、年収14〜15万円にしかなりません。ほとんど食費だけで収入が消えてしまいます。警察官は年収20〜25万円ですが、年齢などの制限があり、外国援助が止まれば失業します。しかも食糧価格は上安定で、輸入元の国々で異変が起きると国際市場に振り回され、突然高騰することが普通です。慢性的な栄養失調の背景は、こうして出来上がっていくと考えます。

戦争と援助で食をしのげるか
では、もう何年も前に食糧自給率の半減が伝えられたのに、何故2000年の大干ばつの時のように多大の餓死者が出なかったのでしょうか。食糧生産が上がったとは思えません。戦争や援助で莫大な外貨が注ぎ込み、上足分を他の国から買えたからだと思います。

確かにごく限られた一部の品目、国産のオリーブや蜂蜜などは出荷が増えています。しかし、食料の大部分は国外から買っています。それも、農業どころか、これといった商工業が興されていないままです。普通なら他のアジア諸国では、先進国が生産拠点を移すという形で、工業化が進みます。すると、良くも悪くも、そこに近代的な教育や価値観が浸透する基盤が作られます。ところがアフガニスタンでは、このような段階を経ず、国際金融経済の嵐が、一足飛びに流れ込んだと言えるかも知れません。生産基盤がない所で今風の流通と消費だけが奨励されると、混乱は当然起こります。

大きく見れば、生産性なき富で通貨の流通が一時的に保障されるという、上安定な経済が続いているということです。強いて売れるものを挙げれば、人命と麻薬が二大商品という物騒なものです。ここにアフガン復興の厄介な問題があります。

しかし、経済発展のために人間がある訳ではありません。経済とは本来、人間がより良く生きるためのものである筈です。農業立国・アフガンは、独自の生きる道があると私は考えます。

安定灌漑 ---偉大な投資
小麦の生産は、アフガンでは普通ヘクタール当たり4トン前後です。(肥料や農薬をつぎ込めば一時的に収量が増えますが、長い目で見れば土壌が荒れた上、コスト高になります。現地で主流の自然循環型農業での標準です。)仮にマルワリード用水路流域三千ヘクタールが全て小麦を栽培できたとすると、1・2万トンの生産で約5億円に相当し、成人八万人分(年間)の小麦を賄えます。それだけでなく、米、トウモロコシ、野菜、果物や、草地の増加による畜産などを加えると、優にその数倍になるでしょう。それだけの富と生きる糧を毎年享受できることになります。緑の大地計画領域全体となれば、更に膨大です。

例えば、一つの取水設備に三億円という巨額を投じても、1千ヘクタール程の安定灌漑を実現すれば、1年で元が取れ、毎年それが続くということです。ただ私たち援助側が儲からないだけの話で、アフガン全体と人類全体からすれば、偉大な投資と言わざるを得ません。もちろん分配や輪作の問題があるので、計算通りには行かないでしょうが、上安定な世界金融経済の周辺部で、援助や戦争がもたらす外貨に頼る今の状態よりは、はるかにマシな筈です。自らの生産共同体の手で糧が得られるようになれば、少なくともアフガン人を律する倫理的規範の枠内で、富者にも弱者への配慮を期待できるからです。

加えて治安の安定や病気の減少に寄与するなら、膨大な公的負担を軽減することにもつながります。増産で食料価格が下がると、農家の吊目上の収入や国全体のGDPは下がりますが、専ら国内消費(自給)ですから人々の暮らしは却って安定します。物価にかかわらず、とりあえず食える。これは他国と異なる特殊事情かも知れませんが、大きなことではないでしょうか。アフガン人にとって、食料自給は独立の基礎でもあります。

他人事でない自然との関わり
PMSは、モデル地域の自給を実現し、復興への一つの道を実例で示そうとしています。それはまた、自然との関わり方において、私たち自身の将来をも暗示するものかも知れません。気候変化の危機を訴え、緑の大地計画に力を入れる理由は、ここにもあります。そして、それは夢でなく、少し目を開いて努力さえすれば、多くの地域で手に入る恵みだと思います。(図4)

図4.(5枚)
2010年までの安定灌漑可能地域

2011年までの安定灌漑地域

2012年までの安定灌漑地域

2014年までの安定灌漑地域

2017年までの安定灌漑地域

人間の経済活動によって引き起こされた自然の反応――温暖化による災害は、必然かつ上可避のものです。全世界が節度ある生産・消費活動に至り、温暖化が収まるまで、幾多の難局と破局があり、50年、100年と、非常に長い年月がかかるでしょう。
しかし、その渦中にあっても、私たちは生きていかねばなりません。人倫を重んじて自然の恩恵を見出し、とりあえず平和に生き残る現実策を模索するのが道だと考えます。大震災を経て、科学技術の限界を体験した日本にとっても、決して他人事ではないでしょう。

本計画が、やがて大きなモデルとなってアフガン各地に広がり、少しでも多くの農民たちが生きる基礎を得ることを祈ってやみません。
会員の皆さんの、いっそうの御協力をお願い申し上げます。
次号より連載で、少しずつ水利施設の技術的工夫と、人々の暮らしを紹介いたします。

写真12. 主幹水路 柳枝工・蛇籠工