水路現場写真(2009年5月6日受取)



 藤田さんや村上先生が帰国して1週間が経ちました。百聞は一見に如かず。現場のことが良く伝わったことと思います。日本は連休だそうですが、現場は休みなく、いろんなことが同時進行で動き続けています。
その後の経過を引き続き送信します。

 ガンベリの係争地は、「平和丘」周辺の公共地化で最終的な落着を見ました。5月5日、地方行政、PMS、軍閥の配下、シギ村の長老たちが「平和丘」に会し、公園・モスク・学校ら公共設備の設置を語り、皆で祈りをささげて事業の成功を祈りました。これによって、軍閥との抗争に決着がつき、誰もが「沙漠が緑の沃野になる奇跡」と「PMSの6年間の奮闘」を称賛しました。


5月5日午前8時半 小雨をついて行われた公共地の礎石おきの儀式。 自立定着村の事実上の第一歩。ここが「ガンベリ村」の中心となり、 学校、モスク、公園、貯水池が建設される。


 このガンベリ沙漠に移住する住民は様々です。下手のシギ村はもちろん、ローガル州・ラグマン州から旱魃を避けて移住する者、軍閥に騙されて土地を入手した者、ペシャワールの難民キャンプから戻った者、クナール州から敵を避けて逃れてきた集団、そしてわがPMSの職員と、要するに「訳あり」の人々が集まり、間近に迫った「ガンベリ村」の構成員となるのです。
 しかし実は、この背後に今なお根づく強力な「掟」がこの和解を実現したと言えます。アフガン農村では、「荒れ地を開墾した者がその所有者になる」という不文律があります。通常、訳あって故郷を離れ、貧苦に喘ぐ集団が荒れ地に居ついても、誰も追い出したりしません。パシュトゥ語でこれを「ヘイラート(慈悲)」と言います。

 PMS職員の移住も訳ありです。6年前、用水路工事が始まった折、ああだこうだと訳知り顔でしゃべっていた技術者は消えてしまい、残ったのは殆んどが農村出身者の現場監督でした。学歴があり、外国語が喋れる技術者は、高給を求めて全て国連や羽振りの良いNGOの許へと去りました。残された職員は他に行く当てもないまま、家族の生活を支えるため必死で働きました。そのうち、自分の仕事に生き甲斐を見つけ、喜んで続けるようになりました。外国人やお金持ちなら、国外に逃れることもできるでしょう。しかし、その土地にしがみついてしか生きられない人々はどうしたら良いのでしょう。PMS職員の多くは、自らの努力によって得た農地で暮らす権利があります。

  昨日の敵は今日の友、こうして吾が職員たちも「ガンベリ村」の一員として平和裏に定住できる社会的な基礎ができたと言えます。土木工事や建築物は見えますが、この和解は見えません。見えないけれども、水と同様、事業成功に欠かせない一つの大きな要素だったのです。

 「平和丘」は良い名前だと皆同意し、ここに「自立定着村」実現は第一歩を記しました。天の利もありました。折よく前日に起きた激しい鉄砲水が造成中の水路と貯水池に溜り、下流の村落は難を逃れました。皆が貯水池の効用を認めていました。

★Dr.T.Nakamura★
中村 哲
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