前の報告へ | 報告トップへ | 次の報告へ

カシコート、冬の緊急工事を終了
~6ケ村の難民化を防止、秋の本工事準備へ全力を~

難民化寸前だったカシコート

本日2012年4月19日、やっと緊急工事を終えました。
昨年10月のPMS=カシコートの和解直後、前段階としてショートカットで主要河道の勢いを弱めるだけの予定でした。
しかし、調査を進める程に容易ならざる事態を知りました。詳しくは既に報告した通りで、サルバンド村に湾曲蛇行した主要河道は深く広く、放置すれば数ケ村が年々濁流に消えようとしていたのです。

最近になって知りましたが、10月段階で既に6ケ村(約1000家族)が、村会で「夏が来る前にパキスタン側へ逃れる」と決定した矢先でした。水が途切れたうえ、洪水の危険が濃厚と考えたそうです。和解の背景には、このような切羽詰まった事情がありました。2012年2月7日の着工式に、PMSの要請に応じ、地域挙げて政府要人の安全保障をしたのも、うなずけます。

空前の河道変更工事

同2月7日から実作業日数62日。河の中心を占拠していた砂州を移動、主要河道を埋立て、大洪水前の河道を回復しました。

砂州の移動は過去に行ったことがありますが、長さ700mにわたって180mを移したのは初めてです。他に村々を守る方法がなかったのです。埋め立てられた河道は、長さ420m、幅65m以上、深さを平均3.5mとすれば、約10万立米の砂利を入れたことになります。更に壊れた堤防を撤去して掘削、埋め立て河道の上に600mの堤防を高さ4m、幅22~28mにわたって盛り土したので、合計約20万立米の仕事となります。限られた期間でこれだけの物量を投入することは、今後ないと思います。

旧河道の締切りが成った2月20日、各村は難民化を取りやめ、村を空けない方針は動かぬものとなったそうです。その後も一ヶ月以上、埋立て作業が続きましたが、水制設置や堤防移動などの工事が加わると、万全の確信を深めたそうです。

揺れるアフガン、動かぬアフガン

この間にも、アフガン全土で政情が騒然、カシコートでも女子学童の機銃掃射事件、頻繁な「空爆演習」による威嚇、対岸では要人やISAF(国際治安維持軍)に対する襲撃が日常化しています。PRT(地方復興チーム)の壊れた橋については、住民側が「橋ができると騒動が増える」とし、再建を望んでいません。戦の実態は、伝えられるよりもっと込み入ったものです。内外で様々な論評や臆説がありますが、確実なのは、軍事活動が全ての農民を敵に回し、「戦はもう無用、暴力では騒ぎが収まらない」と皆が信じていることです。

いずれにしても、生活者としてのアフガン農民は、報道とは別の次元の世界に居ます。今回の河川工事が一段落するに当たり、つくづくそう思いました。政治や戦争がどうなろうと、彼らは家族を養い、子を育て、汗して耕し、村を守り、生きねばならぬということです。人として掛け値なしに共感できるのは、思想や政治・宗教を超えて、まさにこの点にあります。

最後になりましたが、この空前の「準備工事」は、事務局や会員の方々の支えなしに成らなかったでしょう。毎年のことながら、急な動きに即応していただき、本当にありがとうございました。大変だったとはいえ、多くの農民が故郷に留まったことを思うと、汗の流しがいがあったと、しみじみ感じております。また、秋に始まる本工事がJICA共同事業として実施されることが決まり、ここに盤石の準備が成りました。奔走してくれた方々に心から感謝いたします。夏季に少しずつ交通路敷設を進め、秋に備えたいと思います。

ハンセン病について

4月16日、州保健局の定例会議に招かれ、ハンセン病の講義を医師層に行いました。このとき大活躍したのが、2005年に出版されたカラーアトラス、「北西辺境州とアフガニスタンにおけるハンセン病」。この出版の直前に邑久光明園の松本さんが他界し、直後にペシャワールのPMS病院存続が危機に陥りました。松本さんの存命中でなかったことを悔やんでいましたが、やっと陽の目を見ることになりました。美しい写真です。基地病院は失っても、故人がまだ生きていて、一緒に働き続けているような気がしています。

これで保健局を中心に、本病への関心が一挙に高まりました。東部数千名の有病者への治療に向けて、小粒でも決して小さくはない踏み出しでした。

2012年度事業

なお、2012年度の灌漑関係の仕事は、以下の通り

1) カシコート堰・護岸;9月までを準備工事とし、夏季の高水位期の状態を実地調査、最終案を決定。10月、低水位の秋にJICA共同事業として一挙に進める。

2) シギ地域灌漑;事実上、マルワリード用水路の延長工事。幹線を直接シギ村経由でクナール河に戻すことになる。シギ堰、シェイワ堰の流量調整と合わせ、これにより、クズクナール郡全体の湿害発生をも一挙に解決できる。9月末まではサイフォンの釜場と前後の水路建設を行い、サイフォン管200mの建設は、洪水期が去る10月に開始。

3) カマ・ベスード堰の小改修と植樹、石材の搬送

4) ガンベリ開拓;排水設備・砂防林の拡大を引き続き精力的に行う。

5) マルワリード流域の組織化;先ずは浚渫作業を地域の定例行事として定着させ、徐々に掟化する。実は、これが最も大きな仕上げとなる。定着村構想は、時局柄急がない。実態としては、ガンベリ開拓・用水路保全作業を通じて、新地縁共同体の確立過程にあり、PMSはその成員として土着化をめざす。

6) その他;
●カシコート・サルバンド村女子教室の建設。学校組織は既にあり、教師も定期的に交代で派遣されている。建物だけ、5教室を建設する。
●ハンセン病;ひきつづき講義を継続し、行政側の出方を待つ。

この半年は、過去28年間のどの年よりも多事、かつ動きが大きかったですが、無事乗り切りました。

平成24年4月20日 記

投入されたダンプは22台(のべ1364台)、近距離の砂州移動の際は毎日25-30往復が普通だったから、20万立米はこなしたことになる。ローダー2台、掘削機5台がまる二か月以上稼働した。運転手は8年以上、PMSの仕事に従事したものが多く、喜んで働いた。4月19日、秋の再会を約して解散した。
2012年04月19日

橋から上流の作業地600mの全景。いったん用水路が開通すると、人々の目は水路や水門に注がれ、基礎工事に思いを馳せる者はいなくなる。文字通り注目されない訳で、見える物に目を奪われる人の世界では、運命的なものだ。河川や灌漑の仕事では、70~80%の努力と予算が基礎に費やされる。上部構造はやりかえがきくが、基礎はできない。何事もそうだろうが、吾々が土木関係者に親近感を感ずるのはこの点である。
2012年04月19日

埋立てた旧河道(左岸湾曲浸食部)の上に造成された堤防。堤防線は洪水破壊の場所まで後退させ、無理に押し返さない。河道再発生を防ぐため、埋立でできた河原に長い水制を設置している。旧河道末端約70mは余りに深く広く、脆弱な河岸側の20mを巨礫で埋めたが、時間も予算も及ばなかった。第4・5水制で袋状に挟み、土砂堆積を河に手伝ってもらう方針に変えた。河の威力、恐るべし。増水から二週間後には三分の二ほどが砂で埋まった。
2012年04月19日

開放された左岸カシコート側の橋脚。旧堤防がコンクリート壁と橋脚の間30mを完全に閉塞していた。約20m流路を開け、10mを低い位置で交通路を置いた。右岸の処置と共に、これによって橋下を通過する流れが著しく緩やかになった。PRTの橋といい、EU団体の堤防といい、さすがに今回ばかりは、彼らの散らかした後始末が疲れを増し、不誠実な結末に対する疑問はどうしようもない。
2012年04月19日

流失した旧主幹水路の復活と堤防上の交通路。交通路は幅22~30m、橋から650m地点まで敷設し、残る700mは夏の洪水期を過ぎて行う。水路復旧は一時的といえども、カシコート上流域の難民化を止めた。村をつなぐ主な道が水路沿いにあったらしく、孤立していたサルバンド村の人々が利用する。
2012年04月18日

完全撤去・移動した堤防。底辺長20m前後、天端7m前後、高さ;冬の水面から4.5mほどだったが、堤体のコアが砂礫で、表面に巨礫を張りつけた構造だった。そのため、洪水で容易に洗掘されて表法が崩落、決壊部から村落に進入したと思える。約200mが残存して川幅を著しく狭めていたため、全面撤去して30mカシコート村落側へ移動した。新護岸線は65mごとに5カ所水制を置いて堤防から河道を遠ざけ、河中央部の河床低下を期待する。
2012年04月18日

水制群は更に下流側に伸ばされて村々を護る。左岸カシコートを橋から約200m下ると、対岸マルワリード用水路C・D地区の全景が見える。EU団体の主流閉塞のあおりで、C地区からD・F・G地区、シェイワ取水口までの河川工事6.5㎞を余儀なくされた上、カシコート住民との亀裂が作られたことを思い、心よからず。C岩盤は2004年2月、用水路工事で最初の決壊を体験した場所だったが、序の口だった。その後の苦労は、もう話したくない。蛇籠だけで1200個を根固めに投入し、巨礫はダンプ何千台分か、数が知れない。Dの石出し水制群については、詳しく報告した通り。「カシコート」は、文字通り、過去の落とし前にもなる。この工事で両岸を安定させ、数十万農民の暮らしが守られると思えば、恨みも消える。
2012年04月19日

D沈砂池に堆積した土砂は膨大で、完全浚渫をあきらめた。池の径は約250m、真ん中に大きな「池の中の水路」を作っている。土砂のほとんどがジャリババ洪水路から用水路内に流入したものだ。同洪水通過路の抜本的な改修で大量流入はないものと判断、池の中を芝生地とし、沈砂池を幅広い水路で代用する。傾斜は250mで35㎝の落差、十分なので、土砂を含む底水はスライド門から排水できる。
2012年04月19日

池の周囲・約800mは、造成から6年を経て林で覆われており、公園のようになっている。芝生地となれば、みなの憩いの場となる。2009年にPRT(地方復興チーム)と州農業局が、「養魚池にする」と強引に占拠しようとした。池の汚染や軍事目的に使用する可能性があったので、PMSは隔壁を築いて拒否。その後、話は立ち消えた。
2012年04月19日

元ワーカーの鬼木さんが池造成の担当で、公園化を願って作ったぶどう棚。何度も枯れかけたが、植樹班が大奮闘。実をつけるほど成長した。最近まで家族連れの市民がジャララバードからピクニックに来ていた。
2012年04月19日

ガンベリ沙漠第一農場の下流側排水路工事はなおも続く。砂嵐で中断したが復旧、あと400mで全線1200mが開通、農場の開墾地を増やせる。
2012年04月19日

シギ送水サイフォン、釜場の建設。
2012年04月19日

ガンベリ沙漠西端にある洪水路。何でもない乾燥地に見えるが、ひとたび上流のケシュマンド山麓で降雨があると、激しい流れが発生してシギ地域を襲う。幅200~250m、両岸に植樹して被害を防いでいる。
2012年04月18日

マルワリード用水路流域の変化。ガンベリ沙漠横断路開通直後(2009年8月中旬撮影)の状態。いつも講演会で使っているものですが、次の写真と比べてください。

同じ位置からの眺め。2年半で劇的な変化。
2012年4月15日(村井撮影)

前の報告へ | 報告トップへ | 次の報告へ