因縁のカシコートで取水堰準備工事を開始
――人の温かさこそが、かろうじて世界の破局を防ぐ

PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス=平和医療団日本)総院長
ペシャワール会現地代表 中村哲
ペシャワール会報111号より
(2012年4月1日)

みなさんお元気ですか。今冬はアフガニスタンでも例年になく冷え、豪雪が高地を襲いました。
私たちは相変わらず、川沿いの工事です。まるで冷凍庫の中のような仕事で、寒風や冷雨にさらされ、鼻水を垂らしながらの毎日です。それでも、堰の造成で灌漑が成り、人々の笑顔を垣間見るのは、嬉しいものです。

昨年末のベスード第1堰(人口10万、2千町歩)に次いで、去る3月初め、ベスード郡のタプー地域(人口3万、1,500町歩)の灌漑が成りました。何れもJICA(国際協力機構)共同事業の一環で進められていましたが、洪水と渇水による生活不安は甚だしいものがあったのです。

しかし、これによってPMS(平和医療団日本)の取水技術は完成度の高いものとなりました。斜め堰と堰板を駆使した方式は、ようやく地域灌漑関係者の間で認められるようになり、努力は更に続けられます。

小説よりも奇 ― カシコートとの縁
現在の最大の関心は、何と言ってもカシコート地域の復活です。これまでしばしば触れてきましたが、同地とは不思議な因縁があります。古い会員の方なら、1993年の悪性マラリア大流行をご記憶でしょうか。あの時も、ソ連軍撤退に伴って大量の難民帰還があり、国際支援から見放された状態だったと思います。当時爆発的に悪性マラリアが広がり、多くの子供やお年寄りが犠牲になりました。

最も死亡者の多かった地域のひとつがカシコートでした。18年前、2,000名分の治療薬を携え、しらみつぶしに村々を回りました。でも同地域で最後の村に着いたとき、手元に残ったのは僅か50名分の治療薬だったのです。誰も死にたくはありません。普通ならパニック状態が起こります。実際、発足したばかりのダラエヌール診療所では、診察の順番を争う住民たちと一触即発、かなり緊迫しました。

しかし、カシコートでは事情が違っていました。村会の指導者に話すと、重症者のみ50名を選抜し、治療を受けさせたのです。その時彼らが述べた言葉が忘れられませんでした。「こんな所に誰も来やしない。おそらく、あなた方が最初で最後でしょう。わしらは神を恨むほど不信心者ではありません」と、深く感謝の意を伝えたのです。

この「最後の村」が、何と私たちが取水堰の準備工事をしているサルバンド村だったのです。
サルバンドとは、パシュトゥ語で「取水口」という意味です。カシコート地域は20キロメートルに及ぶ川沿いの長大な地帯で、主幹水路の始まるのが同村です。これが年々荒れ果て、ただでさえ貧しい村々は、食にも事欠き、半分以上がパキスタン側に難民化したと言われています。

カシコート地図(河川工事)



更に伝えたい因縁は、同村がPMSマルワリード取水堰の対岸だということです。対岸同士の確執はこれまで伝えてきた通りですが、昨年1月1日、大洪水で傷んだ堰の改修の最中、突然工事中のダンプや重機が拿捕される事件がありました。これは、カシコート側の主幹水路も洪水で流失し、同地域に壊滅的な打撃を与えていたからです。思い余った住民が、「せめてこんな時くらい、多少の助けを」と、強訴に及んだものでした。

当方としては、マルワリード用水路流域やカマ郡の工事の真っ最中、手が回らない状態でした。昨年10月になり、カシコート長老会が異例の謝罪を行い、救いの手を求めました。それほど追いつめられていたということです。

PMSとしても、マルワリード用水路保全のためには、堰対岸の協力が欠かせません。 それだけでなく、元来、このような地域こそが支援の対象となるべきです。窮した住民たちは、やむを得ず傭兵となり、危険な前線に立たされます。健全な生活ではありません。 道義的な意味でも、カシコートを活動の最重要地帯と位置づけ、10月に和解し、工事を決定しました。

実際、ペシャワール会の支える「緑の大地計画」でカシコートは筆頭に挙げられており、ここに画竜点睛ともいうべき計画が始動しました。

難攻不落のクナール河
しかし、話は美談でも、実際の工事となると別です。これがまた、今までにない難攻不落の地形、戦の方がよほど楽だったと、正直ひそかに思いました。相手は巨大な暴れ川です。大洪水の爪痕が生々しく、取水堰予定地から約1,500メートルは、洪水で破壊され、河道が大きく村に進入しています。

主要河道の変更や護岸工事なしに、堰の建設は不可能です。相当大がかりな難工事を覚悟せねばなりませんでした。それも迫りくる増水期前に主な工事を終えないと、秋に予定した取水堰・主幹水路の工事は流れてしまいます。相当に緊迫しました。河は、敵対や和睦もない代わりに、容赦もしません。嘘もない代わりに、人の言葉が通じません。それ自身の理によって動きます。

要するに、人間界の都合と全く無関係な世界を相手にするということです。特に取水堰は、自然と人為との危うい接点です。いったん取り込んだ水なら、かなり意のままに利用することができます。でも河の水は、そうはいきません。

古今東西、人が様々に工夫を凝らし、一定の必要水量を得るべく、営々たる努力が重ねられてきました。 かつて為政者の関心は治水でありました。それは元来、「人が立ち入れない領域であっても、触れなければ生きられない」という真剣な意味を帯びていたと思われます。人柱を立て、神仏に祈ったのも、そのような事情からでしょう。

カシコート洪水破壊地点の護岸の予備工事。2011年10月


下の写真は今年2月の同現場



異例の州政府協力
2月7日、州政府、住民代表、PMSの三者が集まり、起工式が行われました。これも異例づくめで、反政府勢力の出没する辺境に州の首脳が列席するのは初めてでした(普通なら暗殺を恐れて出てきません)。この背景には、PMSの水利事業の重要性が知られ始めたこと、政府・反政府という政治地図を超えて、アフガン人内部で何かが動き始めたということがあります。建設的仕事を介して人々が和する助けとなるなら、PMSとしても喜ぶべきことでありました。

この日は、式場から500メートルほど離れた山腹で外国軍の空爆演習が派手にありました。住民を威嚇しているのです。みな眉をひそめて「危険な演技」に怒りを隠しませんでした。その中での式典は、何か象徴的なものがあるように思えました。

州副知事や村の長老なども出席して行われたカシコート堰・用水路起工式。2012年2月サルバンド村



サルバンド村の銃撃と青空教室
2月15日、「危険な演技」は度を超え、女子学童に米軍ヘリが機銃掃射を加える事件が発生しました。作業現場から遠くないところに学校があり、百数十名の女子生徒は、まだ教室がなく、野外で黒板を囲んで学んでいます。ヘリコプターは超低空で飛来し、子供に襲いかかりました。12名が重軽傷(うち重症6名)、機銃弾が「教室」の石垣を跳ね、その破片で負傷したものです。

折から外国兵による「コーラン焼却事件」で、アフガン中が騒然としていました。PMS側は直ちにケガ人の救援活動を行いました。その際に、学校の教師や父兄たちが、女子学童のための教室建設を懇請しました。
この状態で野外の学習は危険です。青空教室が悪い訳ではありませんが、木陰もない岩石沙漠、厳寒酷暑の中、まともな学習ができるとは思えません。その上、機銃掃射の餌食となるとあっては、たまったものではありません。

PMS側は大いに同情し、用水路工事が山を越える時点で、女子教室の建設を約束しました。サルバンド村側は表面上沈黙し、善後策が話し合われています。これによって、PMSを除き、カシコートに外国人が入れなくなりました。こうした事件はアフガン中で日常的に起きています。堪忍袋の緒が切れたアフガン人将兵が外国兵を銃撃したり、狂った外国兵が民間人を殺したりする事件が相次いでいます。

授業中の女子学童。PMSは校舎の新設を秋から始める(カシコート地区)


かくて、あらゆる意味でPMS最後といえる、大きな挑戦が始まりました。折しも、アフガン空爆に次ぐ復興ブームから10年、見渡せば、外国人の姿が周辺から再び消えました。戦は秩序を乱し、建設的な支援を困難にしてしまいました。

しかし、平和とは、この中でこそ輝くべきです。それは積極的な力であると共に、戦争以上の忍耐と努力が要ります。 最近、古参の職員たちが、しみじみと語ります。

「あれから10年、わしらはちっとも変わらないのに、周りは忙しいこった」

河が変わらず流れるように、私たちの仕事も続きます。血なまぐさいニュースが多いですが、この中にあっても、人々の幸せを願い、少しでも良心的に生きようとする者も少なくありません。そうした人の温かさこそが、かろうじて世界の破局を防ぎ、私たちをつないでいるのだと、最近考えます。
日本自身が困難に直面しているにもかかわらず、変わらぬお支えに感謝し、私たちの活動が明るい希望を共有できるよう、力を尽くしたいと思います。
平成24年3月
ジャララバードにて。