第一弾500ヘクタールの灌漑始まる
PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村 哲
ペシャワール会報84号より
(2005年06月29日)

土石流に襲われる
地元の長老なども参加して執り行われた第二次通水式(2005年6月20日撮影)
狂気の時代である。グローバリズムが国際暴力主義と結合して、面妖な世情になってしまった。だがアフガニスタンでは、今に始まったことではない。
もう20年以上前の「ソ連軍侵攻」から現在の状態は先取りされていた。即ち文明の普遍性と正義の名において、軍靴が平和な農村を踏みにじり、無数の犠牲を生み出してきたからで滅びた「正義」に、別の「正義」がとって代わる。時には、「民主主義」や「平和」の仮面をかぶって戦争が正当化される。

だが、その実態は、少なくともアフガニスタンでは明瞭である。私たちは、いとも簡単に市民社会だとか、市民運動だとかを語るが、途上国の一般大衆には先ずもって「市民権」がないことを報告しておきたい。何百万の人々が死亡しても、まるで「市民」のペットが死ぬよりも軽いことであるかの如く報ぜられる。
そして、その報復があることを「国際社会」が漠然と恐れる。不安は現実化する。共通の敵意と不安を共有して世論が動くとき、恐るべき破局が待ち受けていることを知らねばならない。
みな、だまされてはならない。このような「正義」が、そんなに長続きするものではない。

平和を語るに消極的な日本の民心を眺めるとき、漠然と「生活や身を守る戦争なら……」という無力感と不安が忍び込んでいるのを観る。戦後、日本の民心を正気に連れ戻してきたのは、吾々の先人たちの無数の血の犠牲、その記憶たる戦争体験であった。日本は加害者であり、同時に被害者でもあった。
そして、その限りにおいて、日本は「平和」の発言者たり得たのである。今まさに、先人の犠牲の結実たる平和憲法の改正が、現実の虚像に基づいて大した抵抗もなく受け入れられようとしているのは、耐え難いことである。

「対テロ戦争」とは、実体のない亡霊との戦いである。こんなものに先人たちの死を無駄にし、私たちの子供たちを供えてはならない。平和は軍事力で達成できないことを私たちは見てきた。砂漠からよみがえった緑の大地に立つとき、文字通り地についた平和な感情に支配される。そして、この実感は座して得られたものではなく、命の尊さを共有しようとする努力の結実であることを知る。日本から遠いアフガニスタンの農村地帯にあって、本当の平和が実感できる幸せを感謝したい。 敵は吾々の内にある。

2004年度の概況
用水路G地区。5月の通水で田畑への灌漑が始まった(2005年4月12日撮影)
2001年10月の米軍による「アフガン空爆」以後、翌年2月の復興支援東京会議で沸いたアフガニスタンは、すでに忘れ去られたように見える。この間、世界の耳目は首都カブールの政局の動向にのみ注がれ、一見安定したかのような印象だけを残した。「アフガン復興」の結末は今でこそ、謙虚に総括されるべきである。

米軍による「アルカイダ討伐作戦」は、なお続いており、東部地域(クナール州、パクティア州、ザーブル州、ヌーリスタン州など)の戦闘はむしろ拡大している。米軍は初めの1万2,000名から1万6,000名に増強され、連日各地で米軍襲撃や爆破事件が絶えず、治安は明らかに悪化している。
04年9月、カルザイ政権が正式の選挙手続きを経て、新内閣を発足させたものの、権力の及ぶのは依然として点と線である。

D地区三連水門(2005年4月撮影)
5年目の旱魃はやはり厳しく、農業国家たるアフガニスタンの食糧自給率は60パーセント以下に落ちた。故郷で暮らせぬ農民たちが、イラン・パキスタンから帰還した難民と共に、職のないまま大都市にあふれ、政情の不安定化に貢献している。

ジャラ ラバードでは、05年5月、米兵による「コーラン冒涜事件」が伝えられるや、街頭デモが半ば自然発生的に起き、学生2名が射殺された。このため、暴徒化した群集が 国連や外国NGOの事務所を襲撃、一時東部の支援活動はマヒ状態に陥った。

各地に飛び火した暴動は、追い詰められた住民たちの心情の一端を物語るものであった。大衆の多くが無言の支持を与えていたからだ。アフガン空爆と復興ブーム以後の 一連の動きは、必ずしも飢えた大衆の救済に役立ったとは言えない。一触即発の危機は、「銃剣に守られる復興支援」が続く限り、消滅しないことが浮き彫りにされた。

通水式(2005年3月撮影)
国民の貧窮は至る所で矛盾を生み出した。米軍に擁立されるカルザイ新政権でさえ、「援助の大半が外国団体を通して与えられ、有効に活用されない」との強硬意見が主流となり、04年9月、大幅な外国NGOの淘汰に乗り出したが、NGOを担当する経済省大臣が辞職する一幕もあった。

04年前半、アヘン生産は急増を続け、世界の麻薬の7割以上をアフガニスタン一国で占めるに至った。05年になって、6年ぶりに降雨・降雪が見られ、旱魃は和らぐ気配を見せている。しかし、長期的には、温暖化の過程の一休止期としか思われない。

PMS(ペシャワール会医療サービス)は、これまでと少しも変わらず、アフガン東部の活動を続けてきた。飲料水源(井戸)は1,400ケ所を超え、35万人の離村をくい止め、「難民帰還」に貢献したとはいえ、砂漠化による農村の荒廃は目を覆うばかりであり、04年度は全力を用水路建設に傾けた。
収穫したサツマイモ(2004年9月23日撮影
病死の背景には不衛生と栄養失調があり、十分な食糧(農業生産)と清潔な飲料水こそが、健康と平和の基礎であり、国家再建の柱だという確信は、今後も変わらない。また、遠からず来る米軍の撤退による混乱を思えば、最優先を灌漑計画に置かざるを得なかったのである。

05年4月、用水路建設は着工から2年にして最難関の岩盤地帯(取水口部から4.8km)を突破し、5月20日、公式に「クズクナール地域約500ヘクタールの灌漑成功」を地方行政に伝えた。
工事はにわかに進展し、6月9日現在、全長14km中、工事の先端は10.4kmに延ばされ、7km地点までの導水を確認した。
しかし、活動の建て直しを余儀なくされることもあった。医療活動では、医師層の流出に悩まされ、かつ米軍の活動が奥地にまで及んで職員の安全が保たれなくなった。
現地の子供も喜んでいます(2005年11月7日撮影)
04年1月、92年以来続いたダラエピーチ(沖縄ピース・クリニック)、ワマ(ヌーリスタン)の2診療所を涙を呑んで行政側に譲渡、PMSのアフガン内診療所をダラエヌール渓谷(人口5万)に絞った。飲料水源事業では、帰還難民の急増によって活動地が広大な地域に拡散、管理困難に陥って、現在態勢を立て直している。

試験農場では、飼料生産でアルファルファが根づき、イモ類などで一定の成果が上がったが、成果を論ずるのはまだまだ先である。