希望と絶望のアフガン復興
― 天地人の壮大な構図の中で実感

PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村 哲
ペシャワール会報83号より
(2005年04月18日)
第2次通水の堰が切られ、喜ぶ子ども達(2005年3月)
「結局外国に利用されたのだ」
みなさん、お元気でしょうか。
「アフガニスタン」は、もう余りに話題性から遠ざかり、本当は何が起きているのか、知る人が案外少ないのではないでしょうか。

4年前の「アフガン空爆」、そして「復興支援・東京会議」。自由とデモクラシーの到来、国際テロ・グループを匿う極悪非道のタリバンが倒れ、女性はブルカを脱ぎ、教育が受けられる。難民たちも帰り始め、着々と国家再建が進んでいる。……そんな錯覚を残したまま、再び、いや4度、アフガニスタンは忘れ去られつつあります。

そもそも、アフガニスタンでは特殊中の特殊地域とも言うべき、カブールでの出来事があたかも全土で起きつつあるかのような報道が私たちを欺いてきました。米国は「アフガニスタンの成功例」に倣って、イラク侵略を強行して理不尽な戦争を正当化したし、日米同盟に呪縛される日本の政治家も、「断固としてテロと戦う」と繰り返しました。

おかげさまと言うべきか、以前は日本人であるが故に安全であった現地も、日本人であるが故に狙われる。復興支援とは名ばかりのプロジェクトが横行し、今や「NGO」は国連や米軍と共に、軽蔑と攻撃の対象となるに至りました。
事実は、米軍は初めの1万2千名から1万5千名に増派され、「アルカイダ討伐」は今も続いています。テロ事件は大都市を中心に増えており、行政組織の整備はなかなか進みません。旱魃は依然として猛威をふるい、職にありつけることを期待して戻った難民は都市にあふれ、不満が鬱積しています。

わが活動地の東部地域でも、相当数がパキスタン側に再難民化しています。人々の思いは、「結局、外国勢に利用され、不必要な戦争で虫けらのように扱われた」というのが普通の考えでありましょう。空爆による1万人以上の犠牲は、殆どが罪のない市民であり、その悲しみは、ついに世界に伝わることがなかったのです。

ダラエ・ピーチとワマ診療所、活動停止
ダラエ・ピーチ渓谷2005年3月
小生が怒りをこらえて「復興」の結末を報告せざるを得ないのは、1991年以来、実に15年間、手塩にかけて育てた、山村部の2つの診療所が活動停止に追い込まれたことです。

あの空爆中ですら、診療所は何事もなく職員の月例交代を実施し、休みなく活動を続けていました。それなのに何故停止したのか、説明が要ります。この現実そのものが、「復興」の実態の一端を伝えることになるでしょう。

これらの診療所は、ヌーリスタンという山奥の村とその下流ダラエ・ピーチ渓谷という何れも辺鄙な場所にあり、10年以上、人々の唯一の医療機関として守られ、頼りにされてきました。活動できなくなった理由は、先ず米軍の「アルカイダ掃討作戦」が活発化し、これに住民(決してテロリストではない)が抵抗、交通の安全が保障されなくなったことです。
更に、新行政の失策がありました。大半のNGOは現在、カブール市内に集中、首都に限定された活動を行っています。
ヌーリスタンの山村
一方、新政権もまた、権力の及ぶのは首都のみと言える状態。政府部内では、復興支援がNGOや国際機関を通して行われるので、いくら米国の擁立した政権とはいえ、国家事業ができず、外国団体に強く不満を持ちます。

だが不満を持っても、政府側に財源がない。勢い、カブール市内で政府と外国団体とが取引して、事業のスタイルが決定されることが多くなる。医療行政もそうで、とんでもない机上論が政策として横行することになります。

農村地帯に行きたがらぬNGOに批判が高まり、外国医療支援団体を地方別に振り分け、強制的に責任をもたせる方法が採用されました。その結果、ヌーリスタン・ワマ診療所、ダラエ・ピーチ診療所(沖縄ピースクリニック)はEU(欧州連合)に財源を頼るAMIという組織が統括することになりました。
つまり、私たちPMSがその傘下で、その規則に基づいて活動を行わねばなりません。ところが、規則が妥当であれば良いのですが、診療時間が9時から12時まで、午後は休診、医療職員のローテーションによるPMS基地病院での訓練は認められぬことになりました。
僻地に集めにくい医師の利便性や、ひしめくNGOの割振りを机上で発案したものらしく、ただでさえ医療職員の流出に苦慮してきたPMSは致命的な打撃を受けることになりました。

患者はダラエ・ヌール診療所が対応
ダラエ・ヌール診療所の屋根から見える山々(2005年1月12日撮影)
こうして、「1日中診療、急患なら夜でも診る」というPMSの方針、「定期的に基地病院で訓練させて診療の質を維持する」態勢は不可能となりました。

しかし、ここは外国です。当方としては、誤っていると思っても、行政方針に抵抗はできません。小生の指示で、診療所とその設備を行政機関へ委譲したのは、今年1月のことでした。
それに、「援助団体が米軍の武力に守られながら押し寄せるなら、存在意義も薄れる」との判断があったのです。

最後の交代チームが戻ってきたとき、心の中で泣きました。
心ない軍事活動や外国団体の功名心、患者を思わぬご都合主義、これが「アフガン再建」なのかと、大切なものを踏みにじられた思いでした。気持ちは当の住民たちも同じでした。未だに、「PMS診療所再開」の陳情が頻繁に届けられます。当方としては、「もし、再び無医地区にもどる事態があれば、考慮する。今は政府に逆らうわけにはいかない」としか答えられません。

ダラエ・ヌール渓谷
その後、あれほど強気だった医療行政=NGOは、ヌーリスタンに現れず、新設のダラエ・ピーチでも、まともな診療が行われてないことを知りました。背後に米軍の民生局が関与しており、銃剣に守られる事業は、「米軍の手先」としか映らぬからです。

今はただ、本当の改善を祈るばかりです。PMSはアフガン内では、ダラエ・ヌール診療所を中心に同渓谷全地域を担当し、医療サービスを充実しながら、政情を見守る方針へと切り替えました。

今私たちが最も力を注ぐのは、人々が生きてゆけるようにすることです。
6年目に入った大旱魃は、自給自足のアフガニスタンの食料自給率を60パーセント以下に落としました。今年2月になって、やっと降雪と降雨の増加がみられ、人々は旱魃が和らぐ気配を感じています。しかし、せっかくの山の雪も、3月になって強烈な日差しが照りつけ始めると、日に日に薄くなっています。人々はため息をつきながら、山々を見上げています。

それもその筈、今回の大旱魃は、決して突然やってきたのではなく、10年以上前から、年毎に減少する山の雪と中小河川の水量低下で、農地の砂漠化が徐々に進行してきたのを知っているからです。「カネはなくとも生きていけるが、雪がなくては生きられない」。これがアフガニスタンです。砂漠化は想像を越えるものがあり、9割が農民・遊牧民であるアフガニスタンに戦争以上の打撃を与えました。少なくとも、東部農村地帯での大量難民の発生は、実は旱魃だったのです。それが教育や政治問題にすりかえられたことに、人々は怒りを隠しません。

ついに潅漑を開始
灌漑用水路概略図(H地点付近まで。全長14キロ)
さて、このような中で、私たちが「水源確保」を最大の事業とし、2年前から潅漑用水路に着手したことは、会報を通じて度々お知らせしてきました。

用水路は全長14キロメートル、うち最難関である4.8キロ地点までを完成し、現在6キロ地点を仕上げつつあります。3月にいったん通水した後、決壊箇所を改修し、4月初め、第一弾の潅漑が開始されようとしていることを、喜びを以て伝えたいと思います。

着工から2年目にして、文字通り心血を注いでここまでこぎつけました。作業規模は拡大の一途をたどり、2004年度は全精力をこれに集中しました。作業員が多い時は、700名を超え、重機も大量に投入、今年3月に稼動していた数は、ダンプカー32台、掘削機(ユンボ)7台、ローダー5台、削岩機2台、ローラー4台です。岩盤の発破作業は、昨年春に3万発を超えたところで記録が途絶えていますが、おそらく今年度はそれをはるかに上回ります。

岩盤周りのG地区、下流より上流を望む。右上に見えるのはクナール河
詳しくは、次の会報でふれますが、物量の最大を投入したのが、G地点という岩盤周りの埋立作業でした。高さ17メートル、底部幅40メートル、全長1,1キロに及ぶ長大なもので、1年8カ月の時間を要しました。

これに大量植樹を加えて堅固なものにし、壮大な緑の丘を築き、天圧を十分加えてから掘削、頂点の岩盤沿いに幅6メートルの水路を置きました。

この完成で、不可能と言われたクナール河からの潅水が現実化しました。砂漠化した大地がよみがえるのが時間の問題となりました。4月中に、クズクナールという地域の殆ど、推定450ヘクタールに水が注がれます。
砂漠化した無人の荒野に、次々と家が建てられ始め、人々が耕作の準備をしています。
よみがえった村々に、子供たちの遊び声があふれ、水路の作業で見かける男たちが乾いた畑を整地しています。ウルドゥ語が通じるものが多いので、尋ねると、7、8年前に水が途絶えて、パキスタンに出稼ぎで住んでいたと言います。
つまり難民たちは、水が来ると噂に聞いて故郷に戻ったのです!
この瞬間の笑顔のために、この2年間苦労してきたことを思えば、心温まり、嫌なことも、疲れも、消えてしまいます。

工事はまだまだ続きますが、会員の皆様の理解とご支援に感謝いたします。
砂漠化したクズ・クナール下流域。G地区からH地区を望む(2003年2月4日)。右写真は2年後。
左写真と同じ場所(2005年4月12日)写真の左下から右上に向かって用水路が通水し、道路沿いに流れる分水路による灌漑が始まりました。
クズクナールへの第一弾灌漑を開始。分水路から畑への水路が、住民らによって作られています。(2005年4月)
分水路(2005年4月)