マグサイサイ賞
贈賞理由(翻訳)/ラモンマグサイサイ賞財団
※ラモン・マグサイサイ賞財団より許可を得て、ペシャワール会事務局が翻訳・掲載するものです。
アフガニスタン山岳部の民が、長きにわたって世界の耳目を集めることはほとんどない。 たとえ彼らがこれまで幾度となく繰り返されて来た様に、大国の陰謀や血なまぐさい対立に巻き込まれようとも、ひとたび戦闘が収まるや、世界は見向きもしなくなり、後に残されるのは、瓦礫、難民、そしてこの地域の絶えざる貧困だけだ。しかし、日本人医師 中村哲氏は、目をそむけることをせず、19年間にわたって、この極貧の地域や近接するパキスタンの地に身を捧げてきた。
中村医師は、1946年福岡市に生まれ、1973年に九州大学医学部を卒業後、日本国内の病院に勤務した。若い頃から登山が好きで、アフガニスタン東部の険峻な山々にも足を運んだ。そこで出会った現地の心温かい人々は、近代的医療から隔絶された環境に暮らしていた。これが縁で1984年、中村医師は日本キリスト教海外医療協力会から派遣されて、アフガニスタンと国境を接するパキスタン北西部の町ペシャワールにあるペシャワールミッション病院に赴任した。
同病院らいコントロール病棟の責任者となった中村医師は、この地域の辺境の村落を調査し、無医地区の診療活動に取り組むべく身を投じることになる。一方、国境を隔てたアフガニスタンでは、ソ連侵攻によって起こった戦争が激化していた。中村医師は、パキスタン側に流入して来るアフガン難民のために救急医療センターを組織し、アフガニスタン側でも戦闘地域に移動診療所を設営した。中村医師は活動を始めた頃から、現地人職員と寝食を共にし、現地語を覚え、彼らの苦難を理解していった。ムジャヒディン(イスラム聖戦士)たちとも行動を共にし、勇敢であるとの信望を得た。その評価は今も変わらない。後にアフガニスタンでタリバン政権が誕生した時、中村医師はタリバンからも信頼を得て、同政権の支配地域で診療所を運営した。
また、中村医師は、辺境の地での自らの体験を日本の新聞や自著に綴った。中村医師が描くイスラム教徒の肯定的な姿は、読者の固定観念を覆すものだった。日本国内での著作や講演活動を通じて、現地活動を支援する資金が集まり、活動は徐々に拡大していった。そして1998年、拠点病院として70床のペシャワール会医療サービス(PMS)病院をペシャワールに建設するに至った。この基地病院と4カ所の診療所で、中村医師を初めとする日本人と現地人職員は、総合医療を低料金で提供しており、年間診療数は15万人を超える。患者の中にはこの地域に深刻な被害をもたらした旱魃の被災民もいる。2001年の米国によるアフガニスタン進攻に中村医師は憤りを感じた。首都カーブルではアメリカによる空爆のために食糧配給がストップしたのだ。中村医師は300万ドルあまりの資金を募り、カーブルで餓死寸前の避難民に小麦粉と食用油を配給した。
中村医師は、医療活動や緊急支援だけでは貧困の根底にある構図を変えることはできないということを、現地での長年にわたる活動から学んだ。2000年以来、旱魃被災地域で、水源の確保・再生事業を継続し村民を援助している。現在、1,000ヶ所以上で25万人ほどの村民が、中村医師らが掘った井戸から命の水を汲む。また、新たに灌漑事業を始め、農村社会の再活性化と自立に向けた包括的計画を目指す。
物腰柔らかな中村医師は、現在56歳(受賞時)。普段はペシャワールにある基地病院で職員と共に暮らす。国際援助団体からの寄付を仰がず、政府からの支援を求めず、12,000人の会員の誠心からの寄付に頼る。しかし、自らの活動への報酬は会から受け取らず、定期的に日本に帰国して診療を行い自らと家族を養う。
愛してやまぬ峻険な山々に囲まれた地にあって、中村医師は、政治、宗教、民族を越えた相互依存を実践しようと奮闘している。われわれ人類にとって、これこそが平和への鍵だと中村医師は信じる。中村医師は言う、「この精神こそ私たちが心の中に築くべきものだ」
2003年ラモン・マグサイサイ賞 平和・国際理解部門受賞者を選考するにあたって、同賞理事会は、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯に居住する難民及び山岳部貧困層が抱える戦乱・疾病・苦難の痛みを癒すべく情熱的に献身する中村哲医師をここに表彰する。
※ラモン・マグサイサイ賞財団より許可を得て、ペシャワール会事務局が翻訳・掲載するものです。
- 中村 哲 医師:
日本 ―2003年ラモン・マグサイサイ賞 平和・国際理解部門受賞。戦と病の痛みを癒す。マグサイサイ賞財団は、「アフガニスタンとパキスタンの国境地帯に居住する難民及び山岳部貧困層が抱える戦乱・疾病・苦難の痛みを癒すべく情熱的に献身する中村哲医師」をここに表彰する。
アフガニスタン山岳部の民が、長きにわたって世界の耳目を集めることはほとんどない。 たとえ彼らがこれまで幾度となく繰り返されて来た様に、大国の陰謀や血なまぐさい対立に巻き込まれようとも、ひとたび戦闘が収まるや、世界は見向きもしなくなり、後に残されるのは、瓦礫、難民、そしてこの地域の絶えざる貧困だけだ。しかし、日本人医師 中村哲氏は、目をそむけることをせず、19年間にわたって、この極貧の地域や近接するパキスタンの地に身を捧げてきた。
中村医師は、1946年福岡市に生まれ、1973年に九州大学医学部を卒業後、日本国内の病院に勤務した。若い頃から登山が好きで、アフガニスタン東部の険峻な山々にも足を運んだ。そこで出会った現地の心温かい人々は、近代的医療から隔絶された環境に暮らしていた。これが縁で1984年、中村医師は日本キリスト教海外医療協力会から派遣されて、アフガニスタンと国境を接するパキスタン北西部の町ペシャワールにあるペシャワールミッション病院に赴任した。
同病院らいコントロール病棟の責任者となった中村医師は、この地域の辺境の村落を調査し、無医地区の診療活動に取り組むべく身を投じることになる。一方、国境を隔てたアフガニスタンでは、ソ連侵攻によって起こった戦争が激化していた。中村医師は、パキスタン側に流入して来るアフガン難民のために救急医療センターを組織し、アフガニスタン側でも戦闘地域に移動診療所を設営した。中村医師は活動を始めた頃から、現地人職員と寝食を共にし、現地語を覚え、彼らの苦難を理解していった。ムジャヒディン(イスラム聖戦士)たちとも行動を共にし、勇敢であるとの信望を得た。その評価は今も変わらない。後にアフガニスタンでタリバン政権が誕生した時、中村医師はタリバンからも信頼を得て、同政権の支配地域で診療所を運営した。
また、中村医師は、辺境の地での自らの体験を日本の新聞や自著に綴った。中村医師が描くイスラム教徒の肯定的な姿は、読者の固定観念を覆すものだった。日本国内での著作や講演活動を通じて、現地活動を支援する資金が集まり、活動は徐々に拡大していった。そして1998年、拠点病院として70床のペシャワール会医療サービス(PMS)病院をペシャワールに建設するに至った。この基地病院と4カ所の診療所で、中村医師を初めとする日本人と現地人職員は、総合医療を低料金で提供しており、年間診療数は15万人を超える。患者の中にはこの地域に深刻な被害をもたらした旱魃の被災民もいる。2001年の米国によるアフガニスタン進攻に中村医師は憤りを感じた。首都カーブルではアメリカによる空爆のために食糧配給がストップしたのだ。中村医師は300万ドルあまりの資金を募り、カーブルで餓死寸前の避難民に小麦粉と食用油を配給した。
中村医師は、医療活動や緊急支援だけでは貧困の根底にある構図を変えることはできないということを、現地での長年にわたる活動から学んだ。2000年以来、旱魃被災地域で、水源の確保・再生事業を継続し村民を援助している。現在、1,000ヶ所以上で25万人ほどの村民が、中村医師らが掘った井戸から命の水を汲む。また、新たに灌漑事業を始め、農村社会の再活性化と自立に向けた包括的計画を目指す。
物腰柔らかな中村医師は、現在56歳(受賞時)。普段はペシャワールにある基地病院で職員と共に暮らす。国際援助団体からの寄付を仰がず、政府からの支援を求めず、12,000人の会員の誠心からの寄付に頼る。しかし、自らの活動への報酬は会から受け取らず、定期的に日本に帰国して診療を行い自らと家族を養う。
愛してやまぬ峻険な山々に囲まれた地にあって、中村医師は、政治、宗教、民族を越えた相互依存を実践しようと奮闘している。われわれ人類にとって、これこそが平和への鍵だと中村医師は信じる。中村医師は言う、「この精神こそ私たちが心の中に築くべきものだ」
2003年ラモン・マグサイサイ賞 平和・国際理解部門受賞者を選考するにあたって、同賞理事会は、アフガニスタンとパキスタンの国境地帯に居住する難民及び山岳部貧困層が抱える戦乱・疾病・苦難の痛みを癒すべく情熱的に献身する中村哲医師をここに表彰する。
マグサイサイ賞表彰決定を受けて
ペシャワール会現地代表 中村哲/2003年7月30日
このたび、「マグサイサイ賞・平和国際理解部門」で表彰が決定しましたことに対して、過分な評価に恐縮すると共に、アジアの同胞からの熱い共感として、感銘を受けます。
この表彰は、決して私一人の業績ではなく、身命を惜しまず任務を尽くした現地PMS(ペシャワール会医療サービス)300の職員、そしてこれを20年間、物心両面で支えてきたペシャワール会事務局員、1万2千名の会員たちに与えられた栄誉であります。
PMSはハンセン病診療に始まり、アフガン山村部の無医地区診療モデルの確立を目指し、2000年夏以降、アフガニスタンを襲った未曾有の大旱魃に際しては、餓死線上の者が100万人(WHO)という中、飲料水源の確保を行い、現在その数は1,000箇所を超えました。また、米国のアフガン報復爆撃に際しては「いのちの基金」を呼びかけ、空爆下に餓死に直面する約20万人分の食糧を大量輸送しました。現在、平和な農村の回復を目指し、沙漠化した農地を緑化すべく、用水路などの灌漑事業に力を注いでいます。
その後のめまぐるしい政治的変化と移ろう国際的関心をよそに、私たちの現地事業は何事もなかったかのように続けられています。旱魃は治まる気配がなく、アフガニスタンは混乱を残して再び忘れ去られようとしています。しかし、私たちは今後も変わらずに人々と苦楽を分かち合い、一人の証言者として事実を訴え続けたいと思います。
戦乱のアフガニスタンとペシャワールでの20年の活動は、国境や宗教を超え、政治的立場を超え、実に多くの人々の協力によって行われました。それは必ずしも容易な道のりではありませんでした。時には大きな忍耐が必要でした。
現地職員の国籍や民族、宗教もまちまちです。宗教的対立、国家の壁、多数派民族と他の民族との対立、部族対立、農村と都市の矛盾、急激な近代化と伝統社会との軋轢、拡大する貧富の差、そして「近代的先進国」を自負する日本・欧米諸国と途上国との矛盾―、 おおよそ全てのアジア世界の対立と苦悩の構図を、私たち自身が引きずってきました。
この中で、異なる人々が互いに協力し合えたのは、おそらく私たちが「いのち」を尊び、人としての一致点を探る努力を怠らなかったからでありましょう。
私たちのささやかな確信と結論は、多様なアジア世界にあって、相互の相違を認め合いながら、人として共有できるものがあるという事実です。
昨今、日本で見られるように、国家的暴力行使が平然と是認される国際社会の風潮の中で、弱い立場のアジアの同胞は言葉を奪われ、心ある者は沈黙を余儀なくされております。自らのアイデンティティを喪失し、人としての誇りと平和な生活を奪われることは耐え難いものがあります。しかし、暴力によって立つ者が暴力によって倒されるのもまた、人類史の鉄則であります。
アジアの片隅で行われた私たちの小さな努力が、いかなる既成の立場も先入観も超え、共生と融和の新しい時代の流れを切り開く、一つの捨石となることを祈ります。
ペシャワール会現地代表 中村哲/2003年7月30日
このたび、「マグサイサイ賞・平和国際理解部門」で表彰が決定しましたことに対して、過分な評価に恐縮すると共に、アジアの同胞からの熱い共感として、感銘を受けます。
この表彰は、決して私一人の業績ではなく、身命を惜しまず任務を尽くした現地PMS(ペシャワール会医療サービス)300の職員、そしてこれを20年間、物心両面で支えてきたペシャワール会事務局員、1万2千名の会員たちに与えられた栄誉であります。
PMSはハンセン病診療に始まり、アフガン山村部の無医地区診療モデルの確立を目指し、2000年夏以降、アフガニスタンを襲った未曾有の大旱魃に際しては、餓死線上の者が100万人(WHO)という中、飲料水源の確保を行い、現在その数は1,000箇所を超えました。また、米国のアフガン報復爆撃に際しては「いのちの基金」を呼びかけ、空爆下に餓死に直面する約20万人分の食糧を大量輸送しました。現在、平和な農村の回復を目指し、沙漠化した農地を緑化すべく、用水路などの灌漑事業に力を注いでいます。
その後のめまぐるしい政治的変化と移ろう国際的関心をよそに、私たちの現地事業は何事もなかったかのように続けられています。旱魃は治まる気配がなく、アフガニスタンは混乱を残して再び忘れ去られようとしています。しかし、私たちは今後も変わらずに人々と苦楽を分かち合い、一人の証言者として事実を訴え続けたいと思います。
戦乱のアフガニスタンとペシャワールでの20年の活動は、国境や宗教を超え、政治的立場を超え、実に多くの人々の協力によって行われました。それは必ずしも容易な道のりではありませんでした。時には大きな忍耐が必要でした。
現地職員の国籍や民族、宗教もまちまちです。宗教的対立、国家の壁、多数派民族と他の民族との対立、部族対立、農村と都市の矛盾、急激な近代化と伝統社会との軋轢、拡大する貧富の差、そして「近代的先進国」を自負する日本・欧米諸国と途上国との矛盾―、 おおよそ全てのアジア世界の対立と苦悩の構図を、私たち自身が引きずってきました。
この中で、異なる人々が互いに協力し合えたのは、おそらく私たちが「いのち」を尊び、人としての一致点を探る努力を怠らなかったからでありましょう。
私たちのささやかな確信と結論は、多様なアジア世界にあって、相互の相違を認め合いながら、人として共有できるものがあるという事実です。
昨今、日本で見られるように、国家的暴力行使が平然と是認される国際社会の風潮の中で、弱い立場のアジアの同胞は言葉を奪われ、心ある者は沈黙を余儀なくされております。自らのアイデンティティを喪失し、人としての誇りと平和な生活を奪われることは耐え難いものがあります。しかし、暴力によって立つ者が暴力によって倒されるのもまた、人類史の鉄則であります。
アジアの片隅で行われた私たちの小さな努力が、いかなる既成の立場も先入観も超え、共生と融和の新しい時代の流れを切り開く、一つの捨石となることを祈ります。