地元農民の生存を賭けた働きと日本の良心の証
2009年度現地事業報告

PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス=平和医療団日本)総院長
ペシャワール会現地代表中村哲
ペシャワール会報104号より
(2010年07月07日)
2009年度を振り返って
ガンベリ試験農場のスイカの苗をみる中村医師
7年の歳月をかけたマルワリード用水路の開通は、ペシャワール会始まって以来の壮挙であった。総工費15億円は全て日本の良心的な人々の寄付によると同時に、地元農民も、文字通り生存をかけ、必死で働いた。その気魄が、3,500ヘクタールの農地を回復し、15万人以上の帰農を促した。摂氏50度を超える沙漠の熱風、米軍や軍閥の妨害を跳ね返し、自ら生きる道を開いたのである。
折から「国際社会」は、兵力増派をくり返し、無用な殺戮と報復の応酬で泥沼に陥った。無人機で反政府勢力の指導者を家族ぐるみ殺し、村ぐるみ焼き払うやり方は、もはや修復しがたい不信と敵意で眺められている。

欧米軍は道義の上で既に破れ去った。列強のアジア分割から百数十年、暴力的支配の後始末もまた、むき出しの暴力によって血塗られている。暴力が暴力に倒されるのは、歴史の鉄則である。この状態が長く続くとは思えない。はっきりしているのは、吾々は何かの破局−自明としてきた国際秩序、価値観、経済活動等、全てが問い直される時代のただ中を、生きているということだ。

ガンベリ沙漠の開墾地では水稲の田植えが行われた
現在開拓が進むガンベリ沙漠には、興味深い伝説がある。数百年前、ここは緑豊かな大村落があったという。ケシュマンド山脈から下る雪解け水、雨水が常に小さな川をなし、現在のシギ村は繁栄していた。
だが神は人間を試された。年々水が減った時、人々は和せず、わずかな水をめぐって村々が分裂、流血の抗争となった。その結果、おびただしい人々が死に、村は沙漠の中に消えた。
この話は今でもシギ村の人々の間で語り継がれている。

栄枯盛衰は世の常である。しかし、人もまた、自然の一部である。天の恵みを忘れ、天から与えられた相互扶助と和の心を失い、人為の世界を誇り、驕慢に至れば、自ら造り上げた迷路に陥って自滅する。これは他人事ではない。
現地活動は今後も継続される。吾々は次の世代に何を残そうとするのか。漠々たる熱風の中に消えていった人の営みを思うとき、蜃気楼のように自分たちの行き着く先を考える。ライフルや戦車、無差別の殺戮、愚かな人間たちの血の乱舞も、分を忘れた富貴の夢も、飾られた人の言葉もまた、幻である。

沙漠が緑野に変わろうとする今、木々が生い茂り、羊たちが水辺で憩い、果物がたわわに実り、生きとし生けるものが和して暮らせること、これが確たる恵みの証しである。世界の片隅ではあっても、このような事実が目前で見られることに感謝する。
2010年度も変わらず力を尽くしていきたい。

2009年度の概況
◎米軍増派と治安悪化
2009年は、米国=オバマ政権の方針で欧米軍の増派が更に進められ、混乱がいっそう深まった。初期兵力(2001年)の12,000名から100,000名となり、実に10倍に膨れ上がった。犠牲者は過去最悪を記録している。最近の顕著な傾向は、これまで比較的平穏であった北部で軍事衝突が活発になり、パキスタン北西部および隣接するアフガン東部・南部で、米軍の無人機空爆が頻発するようになったことである。
2010年2月からISAF(国際治安支援部隊)は「タリバン掃討大作戦」と称して、南部パシュトゥン部族への攻勢を強めた。しかし、一般住民とタリバン兵を区別するのは不可能である。殺戮されたのは殆どが普通の農民・市民であったと噂されている。

◎パキスタン北西辺境州の争乱
アフガンのISAFと呼応して、パキスタン領内では、パキスタン国軍が米軍と協力、国境地帯に歩を進めた。部族自治区で修羅場を現出し、おびただしい犠牲者を出している。2009年6月、一時ペシャワールは逃れてくる避難民であふれ、その数は300万人と発表された。
さらに、外国軍の戦死者を減らすため、地上移動が制限され、地元軍が矢面に立たされるようになり、空爆の手段に無人機が使われることが多くなった。「テロリスト指導者の殺害」とは、居住地を確認して家ごと、時にはモスクや学校ごと葬り去るロケット弾攻撃である。このため、罪のない村民の死亡が急増した。理由なく肉親を殺されたものは復讐を誓い、今や反政府勢力は自爆兵の供給に困らなくなっている。
アフガン・パキスタン両国で政府の威信が失墜、強盗や誘拐などの犯罪が日常化して、治安は乱れに乱れている。パキスタンの北西辺境州では「パシュトゥン民族分離独立」の気運が高まり、2010年春、州名を「カイバル・パクトゥンクァ」と改称した。現在、改称は民心をなだめるための段階にとどまっているが、これまで平穏であったパンジャブ州に混乱が飛び火し、先行きは極めて不安定である。パキスタン軍内部でも、意見の対立があると噂されている。

◎米軍撤退の前工作と動揺する政権
カーブルのカルザイ政権は、2009年9月、型通りの「総選挙」が実施されて延命したが、旧北部同盟系の軍閥が国軍や警察に影響力を保っており、秩序を確立するのは容易ではない。カルザイ新政権は、「汚職の一掃」と「タリバン勢力との和解」を掲げて登場したものの、頑強な抵抗は全土で収まる気配がない。タリバン強硬派は、外国軍の完全撤退を交渉の前提とする姿勢を崩していない。2010年6月、ピース・ジルガ(平和・長老会議)が開かれたが、米国とタリバンの双方から圧力がかかった。
ロシア、イラン、中国、インドらの周辺大国の思惑も絡み、事態はいよいよ複雑怪奇である。

◎アフガン復興と国際社会
護岸の柳も大きく生長した
民衆にとって、戦争より脅威なのは、食糧不足である。すでに2006年、WFP(世界食糧計画)は、「食料自給率60%以下」と発表、危機を訴えた。自給自足の農村の窮迫は、膨大な避難民を出し続けている。北西辺境州からの輸入が一時途絶えた2008年、穀物物価の高騰が2倍、3倍に及び、人々の生活を圧迫した。現在タジキスタン方面からの小麦輸入で辛うじて危機を切り抜けているが、渇水による農地の荒廃は依然として拡大し続けている。 欧米軍は徒に軍事力強化を図るのみで、復興を著しく遅らせている。欧米軍の民政支援を標榜するPRT(地域復興支援チーム)の実態は、軍事活動を円滑にするための工作だと考えて差し支えない。PMS(ピース・メディカル・サービス)の活動するニングラハル州では、有力者にカネをばらまき、PRTの弊害が目立っている。

良心的な活動をする団体も少なくないが、ややもすれば外国軍の活動と同一視され、危険である。外国人責任者が現場を見る機会が著しく制限され、実のある事業遂行が困難になってきている。

◎復興事業と政治体制の混乱
また、政府行政の中枢は若い欧米留学組で占められ、アフガン庶民の実情を知らず、徒に先進諸国のシステムを導入し、およそ不可能な規則が横行している。家庭出産が普通の農村部で診療所に分娩室を設置させたり、公認会計士もいないのに会計監査報告を要求したり、実際の事業が停滞しがちになっている。国家再建は長期的視野で、時間をかけて行うべきものである。表層的で性急な近代化プランは却って混乱を招く。これは外国側にも問題があり、アフガン人の都合より、援助側の場当たり的な注文と対応が生み出す弊害だとも云えよう。もはや外国軍の存在は多くのアフガン人の怨差の的となっている。
他方で、アフガン国民の死命を制する旱魃による農地の荒廃は、国際的な話題に上らぬ現実がある。灌漑・水利施設の整備に長い期間を要するのは確かだが、それを最重要課題だと認識する者が少ない。30年以上の内戦と外国軍の占領に人々は疲れ果てている。
華美な市街地の繁栄も、基地経済、援助経済というべきで、底の浅いものである。これは外貨に支えられた不安定なもので、アフガン戦争(1979〜1989年)末期のペシャワールの状態に酷似している。自国の産業育成への投資は、中国などの周辺大国が主で、復興援助資金のかなりがドバイに流出していると言われている。

◎現地活動への影響
昨年度のPMSとPRT=米軍筋との確執は報告したとおりである。吾々の活動にも大きな影響が出ている。

1. ペシャワールの無政府状態で、PMS病院の運営が不可能に陥り、2009年7月、地元団体に譲渡した。この団体はPMS病院のイクラムラ事務長(元PMS病院事務長)を筆頭に旧職員有志で構成され、2009年12月まで運営資金をペシャワール会が支え、その後独立して運営されている。

2. 警察の綱紀弛緩、軍閥や犯罪者の横行で、アフガン人職員も危険にさらされ、自衛手段を講ぜざるを得なくなった。現在、地域の行政組織やジルガ(地域長老会)と協力、外国軍を立ち入らせず、作業地域に自前の警備隊を配置している。ただし、アフガン農村はもともと兵農未分化な社会で、日本で考えられるほど異常な事態ではない。

3. 混乱の隙間を縫って地方軍閥の横暴が目立っている。彼らは暗殺を駆使して恫喝するが、背後に米軍があり、人々は沈黙を余儀なくされている。一種の恐怖政治だと言える。政府の要人は、自国軍や警察が信じられず、滅多に外出せず、外国の警備会社に頼るありさまである。

一方、PMSは「絶対中立」を掲げ、いかなる政治勢力とも距離を置き、粘り強い個別交渉で対応してきた。アフガン人同士の抗争に対しては、これを「内輪もめ」とし、一方に肩入れせぬ方針を貫いてきた。意図的な事業妨害がない限り、吾々は実力行使をしない。PMSに忠誠を誓う600名の作業員の存在と、用水路沿いの住民の協力が、外国軍や軍閥への無言の圧力となっている。

2009年度の現地活動の概要
このような情勢の中でも、現地を逃れる術のない民衆は、生活し続けねばならない。旱魃は依然として深刻で、事業は現地・日本双方の総力を挙げて継続された。
医療事業はPMS基地病院を戦乱で失い、パキスタン側の活動は全て停止、本部をジャララバードに移してダラエヌール診療所を残すのみとなった。
また、2010年1月、旧称PMS(ペシャワール会医療サービス)をPMS(Peace(Japan) Medical Services=平和医療団・日本)と改めた。これは、反パキスタン感情の強い中央政権下で、職員がペシャワールという名前だけで拘引されたり、事業の進行に支障をきたす事態が頻発するため、職員を守る措置として行われたものであった。
用水路事業は、2009年8月、全線24,kmを開通、更に残余の難工事を完了し、2010年2月8日、マドラサ・モスクの落成と共に、「開通式」が行われた。
井戸事業は、2008年12月に廃止、2009年からは用水路沿いの学校やモスクなどの公共施設だけに少数が掘られた。これは、この情勢下で作業地の分散管理が不可能であり、ガンベリ沙漠の開拓団住居の建設を急いだためである。
2008年に一時中断していたダラエヌールの試験農場は、用水路開通と共にガンベリ沙漠に移され、現在開墾事業が進められている。これは農業と用水路事業は現実に不可分だが、全体として、用水路建設から農業復興へ大きな転換が行われつつある。

1. 医療事業
◎基地病院譲渡
ペシャワールのPMS病院は、1998年4月、「恒久的な活動基地」と定めて困難の中で建設された。その後の展開−山間部診療所の維持、飲料水源確保、空爆下の食糧配給、用水路事業などは、同病院の存在なしには考えられない。
しかし、2007年頃から次第に情勢が悪化、爆破・誘拐事件と米軍の越境爆撃が急速に日常化する中、2009年7月、遂に地元団体への譲渡を決定した。この背景には、パキスタン側のアフガン難民強制帰還政策に加え、米軍とパキスタン軍の「テロ掃討作戦」拡大があった。一時は一週間の滞在許可しか貰えず、日本人職員はビザを取るため何度もカイバル峠を越えてジャララバードのパキスタン領事館とを往来した。周辺地域では、しばしば市街戦が展開、まともな診療ができない上、身の危険が迫ったと判断、11年3ヶ月間の歴史的な役割を終えた。日本には伝わらなかったが、あの情勢下で継続されたのは奇跡的だったというべきである。
それでも、残るパキスタン人職員たちの士気は高く、イクラムラ事務長ら有志の必死の努力で現地組織を結成(Town Medical Services)、無事に移譲を終えた。2009年、裕福な市民たちがペシャワールを空けて次々と逃亡する中、留まった職員たちの覚悟は称賛に値する。2009年12月まで、ペシャワール会が運営費を出し、2010年1月から、完全に自主運営態勢となった。

◎ジャララバードの本部化
これによって、PMSの活動はアフガニスタン一国に限定され、ダラエヌール診療所を守るのみとなった。らい(ハンセン病)診療が中断し、患者たちは行き場を失った。このため、特に東部アフガンから来る患者のために、小さな診療施設をジャララバードに置く予定であったが、用水路工事に忙殺され、2009年度中は手がつけられなかった。
2009年度は、ダラエ・ヌール診療所で約40,000名が診療された。(※別表。2009年度の医療事業報告に掲載»

2. 水源事業
◎マルワリード用水路開通
用水路建設は再々述べてきた通りである。2009年8月3日、全長24,kmが開通した。さらに残余工事、特に2kmに及ぶ岩盤周りの築堤工事が難航を極めた。築堤の高さ平均14m、幅平均150mをガンベリ沙漠へ連続させ、約1,000ヘクタールの新たな農地確保を実現した。
2009年9月の大洪水の経験で更に補強、改修工事が繰り返され、用水路工事中で最大の物量を投入した。内法のブランケット工、外法の浸透水処理工事を併せると、使用された土石量は60万立米以上で、2年をかけ、2010年3月、工事を完了した。この結果、集中豪雨被害を制し、人里は守られた。
沙漠横断路は、耕地となる土地の高低を考慮して更に1,3kmを加え、最終的に25,5kmに延長され、現在、排水路と灌漑路網が巡らされている。2010年2月8日、州政府知事や長老を招き、開通式が挙行された。

◎湿害対策と排水路/植樹
2009年3月から継続されていた湿害対策は、既存の排水路の拡張・延長工事が手作業で続けられている。主要排水路は浚渫路と橋を建設しながら約15kmが完成、分岐路が更に網の目のように張り巡らされている。作業はなお続行中だが、回復した農地は約450ヘクタールに上り、百数十家族の農民が帰還した。ここに既存村落の復活が完成した。
干上がった広大な旧沼地は水稲の作付けに適しており、2010年度中に更に農道整備・架橋・灌漑水道等の工事を進める。
また、取水量の調節は当分PMSが自ら行う。今後増え続ける耕作地に必要な量を観察、水の配分を決定する。これは、もともと現地で、水門による取水量を決める慣習がなかったためで、2010年度はPMS主導で水管理態勢を確立する。

◎植樹
植樹の目的は、
@水路工事の一部で柳枝工、 A土手の法面保護、 B土石流の緩流化、 C防風・防砂林の造成 であるが、2010年度は、さらに10万本が植えられた。別表のように(=表はHPには掲載しておりません)全体で約30万本が植えられた。第一期工事(13q)地帯は既に水遣りの手間がなくなり、ほぼ活着した。
2010年度秋から、柑橘類、ブドウ、ザクロなどの果樹園造成が始まる。植樹チームは後述の農業チームと、年度内に一体化する予定である。

◎カマ用水路の取水口建設
最近の気候変動は、アフガニスタン全土で大きな影響を与えている。即ち、雪解けと洪水が早めに訪れ、最も農業用水が要る時期に、渇水が始まる。大河川クナール河沿いの村落は、大きな被害を受けている。
カマ郡は面積7,000ヘクタール、スピンガル山麓のソルフロッドが壊滅した現在、ニングラハル州最大の穀倉地帯となっている。同郡の農業生産高はジャララバードの穀物価格を決定すると言われている。
2008年12月に着工した第一取水堰は2010年3月、第3次改修を終えて安定している。
2009年度、マルワリード用水路建設と並行して行われた取水堰の建設は、カマ郡の第二取水口である。この結果、2010年3月までに、カマ郡全域、約7,000ヘクタールの農地が完全に回復した。現在、帰農した者を含め30万人と言われている。2010年2月9日、カマ郡長老会、アフガン下院からPMSに感謝状が贈られた。
しかし、今後最低3年間の観察、小規模な改修は欠かせない。
なお、2003年3月から2010年2月まで、用水路に関わる事故は、死亡5名、重症5名である。内訳は以下の通り。
死亡(重機運転手の誘拐殺人1名、子供の水路内の溺死事故3名、熱中症が原因と思われる心筋梗塞1名)。重症(頭蓋骨骨折1名、内臓破裂1名、四肢骨折3名)である。作業中の事故死は出さなかった。これらの人々の冥福と重症者の早期回復を心から祈りたい。

3.農業関係
ダラエヌール渓谷の試験農場は、徐々に進行する渇水でいずれ荒廃する。2008年冬から中断していた農業事業は、2009年8月、ガンベリ沙漠横断水路が開通すると同時に、再開された。
最終的に計200ヘクタールが割り当てられ、少しづつ農地を拡大している。2009年度は、とりあえず22ヘクタールが耕作可能となった。しかし、農業チームの主な作業は、現在のところ開墾と水路網の整備である。灌漑工事と農作業は分離できない。
09年度は、スイカ、ピーナツ、菜種、野菜類を植え、主力は開拓作業に従事している。当分、用水路建設班と一体になり、2010年度中に再編成が行われる。後述の自立定着村構想と並行して、作付け、農作業の分担、収穫物の分配態勢を決める。本格的な農場の生産は、まだまだ時間をかけねばならない。
また、沙漠の土質は灌水によって劇的に変化するので、今しばらくの観察は欠かせない。現在、スイカの収穫期で、約2,5ヘクタールの土地で品種の比較研究が行われている。
今夏、水稲は数ヘクタールにとどめ、2010年秋に100ヘクタールを目標に開墾、小麦の生産を本格化させる。(別表。2009年度の農業事業報告に掲載»
その他、養蜂、畜産、養魚なども計画されているが、先ずは農地整備を優先する。
現場では、全ての作業員が農民である。2010年度は、彼らの勘と経験に任せ、現地種を中心とし、増産を図る予定である。最低5年をかけ、試行錯誤を重ね、モデル農場を確実に実現する。


4.ワーカー派遣
09年度は、以下のワーカーが事業に参加した(下表。=表はHPには掲載しておりません)。情勢を慎重に見ながら、主に事務・会計関係で定期的にジャララバード市内に滞在させた。中村を除き、当分は現場作業に邦人ワーカーを派遣しない。

5.マドラサ建設
マドラサはアフガン農村共同体の要である。07年12月鍬入れ式の後に整地作業を始め、建設工事が08年3月から行われた。10年2月7日、モスク(700名収容)、マドラサ(モスク付属学校)を完成、地元宗教指導者に引き渡された。

設計と施工はPMSが全て行った。モスク・マドラサは地域の中心的存在で、復活したシェイワ郡15万人農民を束ねる精神的な核である。10年3月から遠隔地の学童、両親を失った貧しい児童のための寮建設に着工した。寮建設資金は、故伊藤和也くんの両親が設立された「伊藤和也菜の花基金」の御厚意で全額まかなわれる。紙面を借りて、現地農民の心情を代表し、心から感謝の意を表したい。10年秋に落成予定である。
マドラサについては、欧米諸国でとかくの論議がある。しかし、アフガン農村共同体はモスクと付属マドラサの存在なしに成り立たない。欧米諸国が誤解するような過激派の温床ではない。しかも、地域住民や他のイスラム教国からの自発的寄進で運営されている。市中にあふれる戦災孤児、物乞いをする少年たちに教育の機会を与え得るのは、伝統的なマドラサに優るものはないと思える。
学校では宗教教育だけでなく、数学、英語、科学などの一般教科も教えられる。現在600名の学童が学んでいるが、建築は三階建てまで可能で、必要に応じて学童数を将来増やせるように設計してある。

6.自立定着村の建設
用水路は常に維持補修が必要である。このため、ガンベリ沙漠の新開地のうち、約200ヘクタールの試験農場に熟練した作業員を定着・自活させ、彼らに水路保全の任を与える計画である。
約80家族(1,000名)の村を目指しているが、2009年度は、水路本体の工事が難航、所有地をめぐる争いで、家屋の建造は中断している。
しかし、開墾地の拡大と共に、入居者を徐々に増やす方針である。また、行政側との十分な協議が必要で徐々に進める方針に切り替えた。沙漠の開墾が容易ではなく、周辺の村との協力がなければ安心して住める状態ではない。2kmに及ぶ住宅群が、軍閥の狙うところとなり得るので、開墾地の拡大と並行して増やし、急がぬが良いとの判断である。2010年は、試験例として10家族前後を考えている。
安全に暮らせる居住環境は、砂防林の成長、治安の安定、開墾地の整備、政府との合意らが不可欠である。既に、蛇籠・RCCパイプ・どぶ板等の生産、鉄筋加工、育苗場等、必要なワークショップは、集中して管理できるようになったものの、家屋の建設は4家族分のみである。

2010年度の計画
年度報告に述べた通り。農地開拓、用水路保全、排水路整備、浸透水処理、植樹、果樹園造成ら、まだまだ手が抜けない状態である。農業計画はまだ準備段階だと言えよう。医療面ではハンセン病診療の場の確保が遅れているが、政情の変化を考慮し、急がない。