進まぬ復興、遠のくアフガン
―2003年度を振り返って

PMS(ペシャワール会医療サービス)総院長
中村 哲
ペシャワール会報80号より
(2004年07月07日)
2003年度はペシャワール会が始まって21年目である
地元の長老なども参加して執り行われた
第二次通水式(2005年6月20日撮影)
2001年10月の米軍によるアフガン空爆、「対テロ戦争」という名の新たな軍事戦略は、「9・11以後」として世界中を揺さぶった。
破壊と復興支援が対となり、その論理は「民主化」、「テロ防止策」として、先進諸国に説得力を持ち、イラク・パレスチナを始め、イスラム世界で猛威を振るった。

事情を知る者が強く警告したように、対テロ戦争、武力による「民主化」は、テロリスト予備軍を大量生産した。
復興支援で潤う一握りの都市中産階級をのぞけば、少なくとも東部アフガンで米軍と外国勢力の存在を快く思う者はほとんど居ない。
イラク占領の「手本」とされたアフガン問題は世界の関心から遠ざかった。明るい「復興」の報道の後、あたかも民主国家成立が着々と進んでいるかのような印象を残し、アフガニスタンは再び忘れ去られた。しかし、米軍や同盟軍への攻撃は後を絶たず、パキスタン北西辺境州自治区にアルカイダとタリバーン勢力が潜伏すると見た米軍は、2003年秋から大規模な作戦を展開した。だが、自治区住民は頑強に抵抗し、東部アフガン(クナール州、ニングラハル州、ローガル州、カンダハール州)の国境地帯は混乱している。

さらに、イラク侵攻・統治に忙殺される米軍は、功を焦って民政に関わり始め、一方で軍事的関与をNATO諸国に求めつつ、他方国連と協力して8億ドルの巨費を投じて「2004年9月の総選挙実施」を演出しようとしている。地元民は「イギリスの悪知恵、アメリカの軍事力、日本のカネの三位一体だ」と陰で揶揄している。対日感情は今後、いっそう悪化するだろう。2004年5月、現地のニュースで「日本軍(陸上自衛隊)をアフガン派遣」と報ぜられるや、一般民衆の間で不信感が一挙に広がった。PMS(ペシャワール会医療サービス)では、自衛のため泣く泣く日章旗を塗りつぶし、緑の旗に変えた。これは日本人として屈辱的であった。

2003年11月、PMS水路工事現場で米軍ヘリが我々を襲撃したが、これはごく一例に過ぎない。現地では度重なる誤爆の犠牲者に加え、捕虜虐待、枯葉剤の散布などで外国人への敵意が潜行拡大している。事態は選挙どころでないのが実態で、パキスタンだけで160万人と言われる難民の困窮はほとんど改善されなかった。
大半が飢餓に直面し、故郷から避難先へ舞い戻ったのである。世界に散発的に伝えられたのは、首都カーブルを初めとする大都市の現象と政治的動向だけであった。

しかも支援の7割以上が国連・外国NGOを通して与えられたので、いくら米軍に擁立された政権とはいえ、アフガン政府は官吏の薄給さえ支払えず、カルザイ政権自ら援助機関を経由しない「直接の援助」を訴える有様であった。麻薬撲滅も、国軍創設も、武器回収計画も、思うように進んでいないのが現実である。2000年に本格化した大旱魃は4年目を迎えたが、いよいよ深刻化している。2003年4月、WFP(世界食糧計画)は「30年ぶりの大豊作」を予告したが、わずかに雨が増えたのみで雨水に頼る小麦作はことごとく壊滅、予言は当たらなかった。

逆に2003年12月から期待された高山の降雪量は異常に少なく、2004年度の旱魃と砂漠化はさらに進行するものと思われる。事実、PMSが完成した井戸は次々と涸れ始め、地下水位の異常な低下が至る所で観察されている。国民の8割以上を占める農民たちの実情を考えると、「アフガン国家の破綻」は決して戦争や政治問題でなく、異常気象=砂漠化によってもたらされることは確実だと思われる。しかも、この旱魃が突然現れたのではなく、10年以上をかけて徐々に悪化の一途をたどっていることを考えると、為政者も外国援助団体も、その深刻さに戦慄すべきであろう。

国家を底辺から支えてきた農村の分解が促進され、飢えた流民が大都市にあふれる。
彼らは決して明るい「アフガン復興」の話題に上らない。そして、アフガン社会のモラルを強固に支えてきた不文律、農村の掟が弛緩し、外国製の「民主化」が強要される。
混乱は必至だと考えざるを得ない。彼らの生活安定以外に、治安の改善も、国家再建の道もないというのが我々の見方である。

PMSの活動概観
以上のような状況下で、PMSとしては医療に加えて2000年夏以来、飲料水源の確保に奔走してきたが、2003年6月までに1,000ヵ所の完成を見た。
しかし、農業以外に生活手段がない所では、たとい故郷に居ても生計が成り立たない。そこで、2003年度は、農業用水の確保を本格化し、「緑の大地計画」の実施段階に入った。

これまでにもカレーズの再生、灌漑用井戸の掘削を手がけてきたが、2003年3月、全長14キロメートルの用水路建設が着工した。2004年3月現在、 2キロメートルの難所を完成、さらに工事が進められている。

医療関係は、これまで通りの活動が継続されている。パキスタン最北端のラシュト、アフガン東部山岳地帯のダラエ・ヌール、ダラエ・ピーチ、 ヌーリスタン(ワマ)の各診療所では13年を経て、住民たちとの絆は不動のものとなった。現在の水源事業も農業計画も、その基盤の上に成り立っていることを忘れてはならない。 ダラエ・ピーチ渓谷の「沖縄ピース・クリニック」は、2003年9月に落成、12月までに移転を完了した。

ダラエ・ヌールの試験農場では、乾燥に強い作物栽培の研究、茶などの換金作物の試みが継続されている。しかし、旱魃の悪影響は予想を上回り、思ったほどに事は進んでいない。
今後も息の長い活動が必要である。
なお、日本人ワーカーが増員され、20代の青年層の働きが目立った。