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お母様 伊藤順子様 挨拶

息子伊藤和也の一周忌を前に
「私達が行くまで和也の事、忘れないでね。覚えていてね。約束だよ」
-アフガンの子供たちへ
伊藤順子

「憤りと悲しみを友好と平和への意志に変えて。」 これは、中村先生から頂いた言葉です。
「今日からここに居るんだね。お母さんも電車を乗り継いで逢いに来たよ。」
写真展の会場でいつも和也と子ども達に掛ける挨拶です。毎回同じ写真と逢うのですが会場とその場所に行く道程が違うので、新鮮な気持ちで逢うことができます。
皆様の暖かいお心遣いを頂き、少しずつですが心を開くことが出来てきました。
「今、外務省から連絡がありまして……。」福元さんからの電話を全部聞くことができなかった日からもう一年近くなりますが、昨日のことのように耳に残っています。
それは、アフガンに行って一年になるからいつ頃帰ってくるのか「帰るコール」を待っている時でした。そして、私達父母も妹弟も祖父も帰って来ても特別大騒ぎするでもなく、一年も逢っていないことなど忘 れて和也の好きな刺身にお寿司、それから焼き魚、帰ってくる何日も前から母が考えていた献立が並ん だ食卓を六人で囲むはずでした。

 本当にワーカーの皆さんが言っておられるように、自分から何か言うことはありません。父とお酒を飲みながら、母に洗濯物を出しながら、妹にはお土産を渡しながら、弟とは秘密の?、おじいちゃんには優しく、少しずつアフガンでの暮らしを話してくれました。一年も会っていないと顔つきも変わりますが「今回は髪の毛切ってきたの」「お嫁さんのあてはあるのか」とか、母のうるささは変わりません。和也もそんなことは心得たもので、涼しい顔をして聞いていました。第一子でしたので、母も和也と一緒に成長してきたつもりでした。でも和也はこんな母よりずっとりっぱに成長していたんです。和也とこんな別れは想像していませんでした。

アフガンに送り出した時から、この様なことが起きるかもしれないと心の片隅には持っていたつもりでしたが、現実の事となってみると、本当に憤りと悲しみで心も身体もすべてが潰れてしまいそうでした。なんで和也が。なんで和也だけが。どうして助けてくれなかったのか。どうして守ってくれなかったのか。誰にこの憤りをぶつけたらいいのか。押しかけてくるマスコミと人ごとのように報道するテレビにさえ憎しみを持ちました。でも、そんな母を父と二人の妹弟が支えてくれました。マスコミには父が一人で対応し、後から後から来て下さる方々には妹弟がりっぱに対応してくれました。
 ただただ泣いていたように思いますが、この頃の記憶は余りありません。人は生きていくために本当に悲しいことは記憶から消されてしまう、ということを聞いたことがありましたが、56年の人生の中で一番つらく、悲しく、こんなに涙を流したことはありませんでした。
「今度帰ってくるときは、セントレアにしたら?みんなで迎えにいくよ」「考えておく」そんな会話をしたことを思い出していた時「お母さん、和也君の乗った飛行機ですよ」と外務省の方が声を掛けてくれました。薄暮の空にライトを点滅しながらゆっくり着陸してくる航空機が目にはいりました。本当ならタラップを自分の足で降りてくるはずが、棺に入れられ、貨物室から運ばれてくる姿は生涯忘れません。

それから、和也が家族の元に戻ってくるまでは長い時間と複雑な手続きがありました。私達家族だけではとても解決できるものではありませんでした。海外で亡くなるということはいかに大変か思い知らされました。そして、日本人として戻るためには日本でもう一度司法解剖を受けなければなりませんでした。
「お母さんがどんなに反対しても、これは決まりですから」と涙を流して告げる警察の方に、なんて答えたか覚えていません。
東名高速道路を名古屋から掛川に向かいましたが、解剖を受ける浜松医大がある浜松西インターで母と妹は和也と別れました。和也には父と弟が付き添ってくれました。「和也ごめん。ごめんね。もう少しがまんして」そう叫びながら見送りました。今でもなんでアフガンで検視を受けたのに、どうしてまた日本で受けなくてはいけないのか、私の知恵では理解できません。

葬儀が終わり、白い布に包まれたまだ温かい和也を胸に抱いた時、31年前「お母さんしっかりだっこしてくださいね」といわれて初めてこの胸に抱いた時のことを思い出しました。3140グラムでした。
その温かさ、手に伝わる重さは同じでした。この時程悔しく、情けなく、和也を恨んだことはありませんで した。
和也がアフガンで使っていたものが戻ってきました。警察で確認してくださいと言われましたが母は行く事が出来ず、父と妹弟が行ってくれました。ここでも意気地無しでした。

戻ってきたパソコンを妹弟が開いてみると、本当にたくさんの写真が入っていました。農業に関するも のが多かったのですが、その中にかわいらしい子供たちを写したものがたくさんありました。私達は飽きることなく何枚も何枚も見続けました。そしてこの写真を皆様にも見て頂きたいと思い、この事件が起きた時からお世話になっている静岡県ボランティア協会理事の小野田さんに相談しました。小野田さんは 「わかりました。私に任せて下さい」と言ってくださり、ペシャワール会、静岡新聞社、静岡放送の協力の下、生まれ故郷の静岡県・掛川市から写真展を始めることができました。その後、日本各地でペシャワール会主催で開催されています。小野田さんには本当にお世話になりました。
伊藤和也さんの写真展 福岡会場写真展 松戸会場
(左)伊藤和也さんの写真展 福岡会場 / (右)写真展 松戸会場


また、読売新聞社から国際協力特別賞、シチズンからはシチズン・オブ・ザ・イヤー賞、日本ボーイスカウトからはスカウティング褒章を、フランス外務省からはお悔やみの声明文を頂きました。
そして読売からは300万円、シチズンからは100万円と時計を副賞として頂きました。その副賞を基に妹が名付けた「伊藤和也 アフガン菜の花基金」を立ち上げることができました。
和也が願っていた「アフガンを緑豊かな国に戻すお手伝いを」「子供たちが将来食べ物に困らないように」という願いを少しでも叶えることが出来たらとの想いからです。基金には本当に皆様から多くのご寄付を頂き、心よりお礼申し上げます。未熟な私共ですので、ご心配・ご不安等至らぬ点がありましたこと、お詫び申し上げます。本当はお一人お一人にお礼・お詫び申し上げるところですが、今の私どもの心情をお察し頂きお許し頂きたく思います。

  今ここに、アフガニスタンで逮捕された犯人の一人の判決を知らせる通知が届きました。私達家族は、犯人の顔を見たこともありませんし、その判決に異議を唱えることもできません。
日本の裁判で犯人の顔を見て、声を聞いて、殺害方法を聞くことは耐えがたい事とおもいますが、でも、今の様に何も見えない、 聞こえない、言えない、何にもわからない、ただ紙切れ一枚で刑罰を知るという事は、本当に悔しく、辛く、悲しく涙も出てきません。犯人は絶対、絶対に許しません。

親として大切な和也の命を守ってやることが出来なくて、ただただ、和也に申し訳なくアフガンに送り出したことの後悔が続いております。 この様に気持ちが折れたときは和也の前に座り、皆様が写真展で書いて下さったノートや、励ましのお手紙、それから遺稿集に載っているワーカーさんの和也への想いを読ませて頂いています。その一言一言に励まされて、今日まで過ごしてきました。

私達家族は、和也が大好きだった和也の魂の眠るアフガンの地に行くことを願っています。いつも和也は「お母さんが来れるところではない。一日でも居られないよ」といいましたが「そんなことないよ。ちゃんと来たよ」と言ってやりたいです。そして、私達以上に長い年月、和也への想いを持ち続けることとなる妹弟にも是非行ってほしいと思っています。

写真展で逢う子供たちに言っています。「お母さん今日バテテ点滴受けてきたの。でも、あなた達に逢うまでは絶対がんばるからね。あなた達も絶対元気で無事でいてね。」そして「和也の話聞かせてね。お母さんの知らない事いっぱいありそうだから。聞きに行くまで和也の事、忘れないでね。覚えていてね。 約束だよ。」

 私達にとってアフガニスタンは、和也が大好きだった国であり、かわいい子供達の暮らす国でもあり、憎い犯人が居る国でもあります。憤りや憎しみはありますが、これからの平和と復興を願う気持ちは特別のものがあります。進藤君や山口君そして和也が言っていた言葉を皆様にお送りさせて頂き、アフガン、日本そして全世界の方々の友好と平和をお祈り申し上げます。
 どうか皆様も平穏な日々と共にありますように

用水路建設初期における最大の難工事となった取水口で。共に汗を流したアフガン及び日本人ワーカー達と(前列右から2人目が伊藤和也さん)
用水路建設初期における最大の難工事となった取水口で。共に汗を流した、
アフガン及び日本人ワーカー達と(前列右から2人目が伊藤和也さん)


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