アフガニスタン…百年一日の如き国
農業指導員
高橋 修
ペシャワール会報74号より
(2002年12月18日)
収穫した豆を試食する現地スタッフ達と高橋指導員(右から2人目)
「歴史」と「伝統」
私たちが農業計画を進めるに当たって、いくつか気を付けていることがあります。

その第一は、アフガニスタンの農村社会に深く息づいている”歴史”と”伝統”を大切にしなければならないということです。

例えば、農村社会はジルガと呼ばれるムラの長老会が秩序維持の要となっており、またそれぞれの家では、すでに現役を退いた年長の男子が厳然として一家を取り仕切っています。いつの頃からジルガが存在し、また家父長制度が採られてきたのか分かりませんが、恐らく原型はシルクロードの昔から、厳しい自然と部族間の闘争に耐え抜くために生まれてきた制度なのでしょう。もし私たちがジルガを無視したムラの取り決めに関わったり、家父長の意見を軽視して若者の考えだけを重視すると、必ず反動が出てくる恐れがあると判断しました。

第二は、農業経営の姿もまた歴史と伝統が色濃く受け継がれており、一挙に新しい農業の形と技術を持ち込んでも受け入れられないと考えました。

今年の9月、私は約70年前に当時農林省の職員であった尾崎三雄さん(故人)が写されたアフガニスタン各地の写真と、農村と農業の状況を克明に記録されたメモを見せていただく機会がありました。その70年前の写真・記録と現在の状況とを比較すると、全体に緑と花が少なくなっていることを除いて、畑の形も作られている作物も、農具も農作業の仕方も、まさに”百年一日のごとく”ほとんど変わっていないのです。

第三は、私たちはアフガニスタンにおける農業経験は皆無です。日本とは自然条件と社会的条件が全く異なる現地では、農家の経験と意見を尊重して進めないと失敗すると考えました。

試験農場にて。左から橋本ワーカ、高橋指導員、現地スタッフ
「農は一日にして成らず
もともと農業は永年の経験がものを言う仕事です。日本でも農業の専門教育を受けた若者が、就農後すぐに音を上げる例が多いことからもお分かりいただけるでしょう。また農業は、それぞれの土地の気象・土壌・水利などの自然条件とか、資材調達・生産物の販売などの社会的条件に制約されています。いかに新しい作物を取り入れようとしても自然条件に合わなければ収量は上がりません。また自然条件に合った作物であっても、生産に必要な資材が買えなかったり、生産物の販売方法が無い場合には経営として成り立ちません。農業は、単に技術があればできる、儲かるといった仕事ではないのです。少しくどくなりましたが、このことはアフガニスタンに限らず日本でも大変重要なことなのです。

以上くどくどと述べてきましたように、アフガニスタンの農村社会と農業の現状は、他所者の私どもからすると一見不合理で遅れているように見えますが、アフガニスタンには、歴史と伝統に培われた農村の仕組みと、アフガニスタン流の農業が存在し、農家はそのことに自信と誇りを持っています。不合理に見えても、よく確かめてみるとその裏側には必ず何かの理由があります。このため私たちは、日本人の物差しに当てはまらなくても、まず現在のアフガニスタンの農村の仕組みと、農業のやり方を正面から受け止め、そこから徐々に改善していかなければならないと考えてきました。一足飛びに、新しい技術と方法を持ち込めないところに農業計画の難しさがあると思っています。
それでは次に、農業計画は今日まで何をどのようにしてやってきたかを説明します。

ジルガとの話し合い。右手手前は目黒ワーカ
ジルガと協力して候補地探し
まず第一に、パイロットファームの設置と場所の選定から取りかかりました。パイロットファームとは新しい作物とか改良技術を農家に見せるための、いわゆる”展示圃”です。

この作業は、以前から地域に溶け込んで活躍しておられる目黒さんに進めていただきました。目黒さんによりますと、まずダラエヌール渓谷内のジルガに集まって貰って趣旨を説明して基本的な了承を得、設置場所についても意見交換をしてもらったとのことです。全員大賛成であったと聞いています。その背景には、永年の医療活動と2000年7月から開始された水源確保事業によって、ペシャワール会に対する厚い信頼感が培われていたからと想像しています。

続いて目黒さんに行っていただいたのは、パイロットファームの設置場所の確定と担当農家の選定でした。この作業は、水源確保事業に携わっている地元出身の有力スタッフと相談しながら進めてきたとのことです。このスタッフはムラの中の事情に詳しく、またムラの中で人望のある人材です。

もしペシャワール会が、直接パイロットファームと担当農家の選定を行っていたならば、相当物議を醸し、あるいはパイロットファームの設置は不可能であったかもしれません。
試験農場そばを流れる灌漑用水
第二に私たちが行った作業は、作物栽培の状況と土壌・水質の実態調査です。私たちは土壌調査を兼ねてダラエヌール渓谷の北から南まで畑を歩き、栽培されている作物と生育状況を観察しました。また現地スタッフ中心に北部・中部・南部で計6戸を対象に、作物の栽培状況について聞取調査を行いました。

これらの調査の目的は、パイロットファームに入れる作物の種類を何にするか、技術改善のポイントをどこに置くか、技術のレベルをどの程度にするかなどを探るために行ったものです。事前に行った畑の観察結果と重ね合わせていろいろ質問し、実態と問題点がかなり把握できたように思っています。

第三は、いよいよパイロットファームの作付と栽培展示です。導入する作物は、まず地域の重点作物である小麦、玉蜀黍、飼料作物を取り上げました。更に小面積ですが新しい作物として豆類を導入し、また今後芋類とブドウの作付を予定しています。つまり第一段階の重点作物は昔から地域に馴染みのある作物を取り上げ、農家の栽培経験のない作物は小面積に止めるよう心がけています。改良品種の種子・種苗はできるだけ自然条件が似通っているパキスタンから導入しましたが、一部日本から持ち込んだ品種もあります。

栽培技術については専門的になりますので内容を省略しますが、考え方としては、現地調達できない資機材は使わないで、できるだけ現地で手に入る物を利用することとしています。例えば、作物の新芽に着生するアブラムシ(俗名ヌカ虫)の防除のために、農薬を使わずに、タバコの吸い殻2〜3本を一晩水に浸け、出てきた薄いニコチン液を散布して駆除したなど、いろいろと考えながら現地に合った技術を工夫してきました。

試験農場で実ったササゲ
水をめぐって
次にパイロットファームでのハプニング・トピックを紹介しましょう。

これまでに一つだけ、現地の習慣に逆らって厳しく対応した事柄があります。それは水の使い方です。現地ではカレーズ(伝統的な横穴式の井戸)から湧き出てきた水を、順次畑に導いて潅水していますが、農家のやり方を見ていますと、いったん自分の畑に順番が来ると3〜5時間水を入れ続け、相当水の無駄遣いをしています。

このため中には水分過剰で根腐れを起こしている畑もありました。もともと水が少ない地域ですので、折角ペシャワール会が苦労して確保した水です。上手に使えば今の倍の面積が潅水できると判断し、「潅水は15分以内に」と喧しく指導してきました。気持ちは理解してくれたようですが、まだ抵抗感が残っているように感じています。

試験農場で実ったササゲ
シロアリ騒ぎも
これまでパイロットファームでいくつか困ったことが起こりました。

その一つは、パキスタンから持ち込んだササゲ(現地では大豆の一種になっている)の収穫が近づいた頃、パイロットファームの近くの子供、時には大人も混じって、勝手にマメの熟した莢を選んで収穫(泥棒)していくのです。中には堂々と前垂れいっぱいに持っていく子供もいました。もともと親戚とか隣近所が助け合う風習ですのでそれほど罪悪感がないのかも知れません。

しかし、私たちがいかにアフガニスタンの風習を尊重すると言っても、これでは収量も分かりませんし、また来年の配付用の種子が確保できませんので、毎朝早く(泥棒の先手を打って)収穫して貰うよう担当農家に頼みました。

もう一つトラブルを紹介しましょう。パイロットファームで飼料作物を播いていたときのことです。苦労して畑の準備をして種を播き、潅水しやれやれ終わったと思った直後、どこからともなく現れた大型の熱帯シロアリの大軍が、せっせと種を穴の中に運び込んでいるではありませんか。2〜3日後見に行きましたら今度は残っている種から出た新芽までどんどんと運び込んでいるのです。もう憎くて憎くて足で踏みつけましたが到底追いつくものではありません。この飼料作物は日本から持ち込んだ種類ですが、こんなところにも新しいことに対する障害が出てくるものだと肝に銘じました。いま農薬を使わないで蟻を防ぐ方法がないか考えているところです。

以上のパイロットファームの取組みと並行して、私たちはサイレージの作成を進めてきました。サイレージとは、2〜3cmに切った飼料作物を穴の中に詰め込んで乳酸発酵させ、冬用の家畜飼料を確保する大変重要な作業です。アフガニスタンの農家にとっては未知の技術で、また私自身も60年前の子供の頃に経験しただけですので、農家も私たちも緊張のしっぱなしでした。
いろいろエピソードがありますが、残念ながら紙数が無くなりましたのでまたの機会にご報告したいと思います。

数百年前から現在まで連綿と、昨日から今日と変わることなく続いている悠久の風土の中に、私たちは農業計画と言う一石を投じました。アフガニスタンの歴史と伝統の重み、厳しい自然条件と社会的条件に照らせばささやかな取組みかも分かりませんが、農業計画を通じて少しでも人々の意識が変わり、また中核となってくれる人材が育てば、必ず彼ら自身の手で希望に満ちた農村に生まれ変わると信じています。
私たちはその事を夢に見ながら、明日からもまた、自らを励ましつつこの道を歩み続けていきたいと考えています。