ペシャワール会発足20周年記念・現地活動報告会から
アフガン復興、まずは人々の生活から
― NGO活動、支援の継続こそが信頼築く

PMS副院長
ズィア・ウル・ラフマン
(聞き手:ペシャワール会事務局長 村上 優)
ペシャワール会報81号より
(2004年10月13日)
20周年記念現地報告会にて。左より村上事務局長、ズィア医師、松岡事務局員
「各国NGOが撤退する中でも支援を継続していたのがPMSでした」
――私どものPMSの組織ができましたのは1995年ですが、ズィア先生は96年からPMS病院の活動に参加されました。まずズィア先生から、ご自身の紹介と、アフガニスタンの紹介をしていただきたいと思います。

「PMSの活動をご支援してくださるペシャワール会会員の皆様、寄付をしていただいている皆様、そしてお集まりの皆様、こんにちは。私はこの素晴らしい国日本で本日開催されますペシャワール会報告会に出席できますことを大変嬉しく思っております。私は、ズィア・ウル・ラフマンと申します。医師です。

1984年にカーブル大学を卒業しました。大学卒業後、ジャララバード総合病院に4年間勤務いたしました。その後パキスタンに移住し、USAID(米国国際開発庁)が寄付しているMCI(Mercy Corp International)で90年から93年まで活動しました。そのプログラムが停止した後、ドイツ政府が寄付するドイツのNGOで93年から95年まで活動しました。同機関はパキスタン側バロチスタン州のクエッタに本拠を置いてアフガニスタン内5州で活動していました。このプログラムが終了した後96年からPMSで働くようになりました。

私の国について紹介いたします。アジアに住む一人のアフガン人として申し上げたいことがあります。中央アジアに位置する私の美しい祖国は、25年に及ぶ戦闘で破壊され、多くの殉教者、身体障害者、孤児が生じました。わが国の経済、教育、防衛制度のほぼ9割が、戦乱によって破壊されました。数カ国が自らの政治的目的を達成せんがためにこれらの破壊を行ったのです。幸いこの戦争に加担しなかった国が一国ありました。それが日本でした。現在わが国は首都に限られてはおりますが、徐々に発展しています。日本政府は、アフガニスタン復興支援の第一線に立っています。全てのアフガン人は日本に感謝しており、日本人を真の友人であると思っています。」

――ズィア先生は96年からPMSに在籍しておられます。当時、PMSの活動をどのようにご覧になっておられたのか伺いたいと思います。

「旧ソ連軍がアフガニスタンに侵攻して以来、多くのアフガン人は故郷を離れてパキスタンやイランへの移住を余儀なくされました。当時、多くのNGOがパキスタンやイランに居住するアフガン人への支援活動を始めました。残念ながら、こういったNGOのほとんどが旧ソ連軍がアフガニスタンを撤退した後活動を停止しました。ほんの僅かのNGOが残って活動をしていましたが、それも彼らの私益のためであり、アフガン人を助けるためのものではありませんでした。さらにタリバンが登場すると、これらのNGOの全てがアフガニスタンから撤退しました。

この時期アフガン人は、多くの困難に苦しみ、『このようなNGOは特定の政府と彼ら自身の利益のために働いているのだ』と考えました。幸いどんなに困難な時期にもアフガン人への支援を続けていたNGOがたった一つありました。それがPMSでした。」

「用水路は多くの難民帰還を促すでしょう」
カーブル カルガクリニックにてスタッフ達と(右端ズィア医師、左から3人目中村医師/2001年)
――ズィア先生はドクターですが、アフガニスタンのプロジェクト全体の現地でのコーディネータもしています。特に2001年10月以降の空爆下の食糧援助については、並大抵のことではなかったと思います。アフガニスタンのプロジェクトについてお話しいただければと思います。

「お話しましたように、全てのNGOが去って行った中、PMSだけが残ってアフガニスタンの人々の支援に当たりました。PMSはアフガニスタン内に、ダラエヌール、ダラエピーチ、ダラエワマの3ヵ所の診療所を運営し、1日に150〜200人の患者さんを診ています。

米国によるタリバン政府への空爆の中、アフガン人は保健医療、経済的問題などさまざまな問題に直面していました。そのような困難な時期にPMSはカーブル郊外に診療所5ヵ所を設立し、何千人もの人々の命を救いました。更に空爆の最中の困難な時期に、食糧配給を行い、何万人もの母親や栄養失調の子供の命を救いました。

アフガニスタン東部、特にソルフロッド郡、ロダト郡、アチン郡、ダラエヌールを襲った大旱魃によって飲料水の汚染のために、多くの人々が病気にかかり命の危険に脅かされました。PMSはこの地域で井戸掘削、カレーズ(伝統的地下用水路)再生を行い、多くの命を救いました。そのため水不足のために故郷を離れていた人々が帰郷して来ました。

井戸の掘削現場
ダラエヌールのブディアライ地区では、灌漑用水がないためにまるで砂漠のようになっていました。そこでPMSは灌漑井戸とアーベ・マルワリード(真珠川)用水路の掘削を開始しました。用水路はジェリババからシェイワ地区まで掘削される予定で、完成すれば3000ヘクタールの土地が灌漑可能となります。毎日700人以上の作業員が掘削工事に当たっており、用水路完成後には、多くの人々が帰郷できるでしょう。」

――今、アフガニスタンプロジェクトのお話を伺いましたが、本来ズィア先生は、ペシャワールにあるPMS基地病院で医療活動にもあたっておられます。そのご紹介をしていただきます。

「パキスタンにあるPMS病院では、毎日の外来患者数が300人以上で、患者さんのための優れた器材・施設を備えています。例えば、超音波診断装置、エコー、内視鏡、脳波形、放射線、心電図、精密検査室などです。またハンセン病、てんかんの患者さんのために、特別検査室も設けています。また手術室もあります。

PMS病院で見られる症例は季節変動があり、夏期に多いのは、腸チフス、マラリア、下痢症、アメーバ症、ジアルジア症、胃腸炎、脱水症、栄養失調です。重症の場合は入院加療をし、一日10人以上の入院患者がいます。ハンセン病の患者さんは反応が始まった時や外傷を訴えた場合に入院します。

PMS病院の他にPMSはパキスタン山岳地帯に2ヵ所の診療所を運営しており、1ヵ所がコーヒスタン診療所ですが、現在は閉鎖しています。もうひとつがチトラル地方のラシュト診療所で、一日あたりの診療数は80〜100人です。」

「PMSはアフガンと日本の架け橋です」」
PMS基地病院で外来診察中のズィア医師
――どうもありがとうございました。現地ではアフガン人、パキスタン人、日本人が協同して働いています。その働きを日本の支援者の方々がサポートしています。日本人に対するメッセージをいただきたいと思います。

「私が先ほど申しましたように、わが国の全ての制度がこの間の戦争と内戦で破壊されました。アフガニスタンの人々が知っているのは戦乱だけでした。しかしそれは、いくつかの国が、アフガン人には戦乱だけしか知らないようにさせ、政治については無知にしようと企図していたからです。このような厳しくひどい情勢下、アフガン人が必要としていたのは友好的な国からの支援でした。私が日本の皆様に申し上げたいのは、ただアフガニスタンの歴史に耳を傾けていただきたい、アフガニスタンの現実に耳を傾けていただきたいということです。ニュースや欧米からの情報に頼るのではなく。

このひどい状況から立ち上がるには、アフガニスタンはあまりにも貧しくエネルギーがありませんでした。25年間戦争しかなく、全てが破壊され、人々は貧しかった。ここから立ち直るには支援や協力が必要でした。皆様が貧しいアフガニスタンの人々を助けることができる方法があります。それは、PMSの活動を支援することを通じて、貧しく苦しんでいる人々を助けていただくことです。

アフガニスタンでの食糧配給(2001年10月)
先ほど申しましたように、たった一つのNGOが残ってアフガン人を助けてくれた、それがPMSでした。ですから、アフガニスタンの人々が皆様にお願いしたいのは、PMSの活動を通して支援していただくことです。アフガニスタンの人々はPMSの活動に感謝しています。そのような地元の人々の支援によってPMSワーカたちは遅くまで屋外で作業をすることができます。

これとは対照的に他のNGOメンバーたちは、警察の護衛がなければ移動できません。PMSはアフガニスタンと日本の人々の間の友情の架け橋のようなものです。アフガニスタンの人々はこれからもずっと日本の人々との友情に感謝し、日本の人々からの支援と活動に感謝していくことでしょう。日本の皆様はアフガン人ひとりひとりの心の中の特別な場所にいる大切な方々なのです。

最後に、アフガニスタンと日本の人々との間の友情と兄弟愛が末永く続くことを願っています。“アリガトウ ゴザイマシタ(日本語で)”」

食糧配給カードを作成するズィア医師(2001年10月)
「政府は人々の生活向上よりも選挙に忙しいのです」」
――カーブルやアフガニスタン東部で食糧配給をしていらした空爆当時を思い出していただいて、どのような使命感で活動されていたのでしょうか。

「ドクターサーブ中村がカーブルで食糧配給を始めると言われた時には、米国がカーブルに激しい空爆を加えており、非常に厳しい状況でした。全てのNGOはカーブルから逃げ出し、政府もおそらく逃げ出すだろうと考えていました。しかしその考えは間違いでした。なぜなら多くの貧しい人々がカーブルに残っていたのですから。

まず、私たちは配給のための事前調査を始めましたが、多くの困難がありました。私たちの配給用に準備していた食糧の量は限られていて、これでまかなえる量よりずっと多くの人たちがカーブルにはいました。誰が貧しいのかをどのようにして見分けるかが私たちにとっては難しい点でした。

村から村を訪ねて行くと、そこには何百人、何千人の人々が住んでいます。その何千人もの中から誰が貧しいのかを特定するのが、私たちスタッフにとっては難しかったのです。各戸のドアをノックして家の中に入れてもらい、人数を数えるとほとんどが大家族でした。村人たちは、バザールで買ってきた干からびたパンのかけらを見せ、それを粉にして水を混ぜて子供たちに与えていると言いました。

アフガニスタンでの食糧配給風景(2001年10月)
もう一つ困難だった点があります。食糧配給を始めた頃60人のスタッフがおり、調査や配給作業を終えた夜、スタッフは1ヵ所の事務所に戻って来ました。しかし、当時米軍は大勢の人間が1軒の家に入るのを見つけると攻撃していましたので、とても危険でした。
そこでドクターサーブ中村に『どうやってスタッフの安全確保をしたらいいでしょうか』と相談したところ、中村先生は『ズィア先生の考えは?』と尋ねられました。『スタッフを2ヵ所の事務所に分散させてはと思います』と答えたところ、ではそうしましょうということになり、スタッフの安全を確保するために事務所を2ヵ所にし、スタッフを2グループに分けました。このように困難な状況にもかかわらず、PMSはカーブルやジャララバードの人々に食糧配給を行い支援しました。」

――どうもありがとうございました。生々しくその当時のことを振り返っていただきました。このあたりのやりとりは最近ペシャワール会が出版した『空爆と「復興」』にも少し触れられていますのでご覧ください。それでは会場から何かご質問はございますでしょうか。

『私たちがアフガニスタンに対して抱いていたイメージは、現代の世の中に素晴らしい純朴な人々が住んでいる国、バックパッカーたちの理想的な国として目指した人たちもたくさんいました。今二十数年に及ぶすさまじい戦いの中で、ズィア先生がアフガニスタンをどういった国にしていきたいかという展望があればお聞かせ願いたいと思います。』

「暫定政権が設立されて以降多くの国々やNGOがアフガニスタンにやってきました。しかし、彼らの活動のやり方は全く異なっていました。例えばある人たちはDDR(武装解除、動員解除、社会復帰)計画を始め、また、ある国はアフガニスタンの人々の生活を変えると約束しました。しかし、アフガニスタンの人々がまず必要としているのは、経済生活を変えることだと私は思います。例えば食べ物、飲み水、他の資源がない人たちがいます。そのような状況でどうやってDDRを遂行できるでしょうか。どうやって他の計画を遂行することができるでしょうか。もし他の国がアフガニスタンを支援したいのであれば、そのような貧しい人々の生活をまず支援していただきたいのです。


政府高官らは、ボン会議で3つの約束をしました。アフガニスタンの人々の生活を向上させる、武器を回収する、権限を専門家に委ねる、というものです。しかし、2年経った今も、武器は回収されておらず、人々の暮らしは変わっておらず、治安も改善されていません。しかし、これまで多くの資金が注ぎ込まれてきました。政府高官らは、選挙をいかに行うかに忙しいのです。しかし、それは高官らの考えることです。普通の人々は誰もそのようなことは考えていません。私は、国造りは下から一歩、一歩段階を踏んで造り上げていくべきで、トップダウン式に一挙に作ることはできないと思います。」

――どうもありがとうございました。