診療体制の混乱にとまどっています
PMS看護部長・院長代理
藤田千代子
ペシャワール会報82号より
(2004年12月15日)
アフガニスタン国内を訪れた藤田看護部長
高給求めて去る医療スタッフ
ペシャワール会の皆様お元気でしょうか。
ふと気がつくとこちらに来てから、14年が夢のように過ぎていました。ペシャワールも、アフガニスタンも、決して人を退屈させません、といえば聞こえはいいですが、年々、問題が大きくなり、また増え続けています。

3年前に始まり現在も続いているアフガン空爆、復興支援のニュース以後、いったい現地で何が起きているのか、これまで多くのワーカーたちが報告してきたとおりです。

ところが、今度ばかりは面食らってしまいました。手塩にかけて育てた多くの医療スタッフが、次々とカーブルや国外に移住、アフガニスタン国内の診療所の運営が困難に陥ったのです。これは、他の外国団体や国連プロジェクトが高給を出すこと、上部の政治的な取引で、診療所の内規までが規制され、動きがつかなくなったこともあります。

私たちが過去10数年間、精力を注いで維持してきた診療所です。文字通り、中村医師が命がけで建設し、皆で職員をやりくりし、薬品の配給体制を整え、大変な労力をかけてきました。何だか割り切れない気分で、寂しいです。

ダラエ・ヌール診療所
ハンセン病診療の難しさ
元々私達の診療所は、らい(ハンセン病)の問題が出発点でした。らいの多発地帯である東部アフガニスタンから国境を越えパキスタンのペシャワールまで来ざるを得ない患者のために便宜を図ろうというものでした。ところが、無医地区の一般診療所としては確かに十分役割を果たしてきたものの、ハンセン病患者は殆ど恩恵に浴することがありませんでした。周囲の目を気にして診療所に来ないのです。

また医療従事者がハンセン病に関心がないという実態もありました。
ペシャワールの病院ではらいに関する仕事をさらに充実させようと日本人医師を中心に進行中ではありましたが、担当となった医師の都合によりたち消えになってしまい、ハンセン病や類似の障害を抱えた人の診療は次第に下火になっていました。

新たに雇われる医師たちは、ハンセン病や難病の診療に興味を示さず、内視鏡やエコーなど新しい技術を覚えると、さっさと外でサイドビジネスを始め病院を出てゆくという状態です。

PMS病院のレントゲン室
技術を得るとすぐ転職
ここ数年の私達の病院は診療所に派遣する医師を確保するため、及びそのトレーニングをする教育施設としての方針で進められてきました。医師を確保するためにエコー検査(現地では心エコー、腹部エコーはドクターの高級技術です)や胃カメラなどが取り入れられ、と同時に心電図やレントゲン写真の判読などもトレーニングに加えられて、今では心電図を読める医師が数人いるようになりました。

しかし、技術を習得すると、古参のパキスタン人医師は高給ではないけれど管理がルーズで、午後からは個人診療所で稼ぎ、退職後は恩給がつく公務員を目指して、またアフガン人医師はカーブルで他の機関での高給を当てにしてどんどん退職して行きました。中には病院で診療所への出発前日、常時行われるミーティングに出席し意見も活発にのべていた医師が翌日出発寸前に退職した時もありました。私は驚きのあまり怒りも忘れたほどでした。

エコー(超音波画像診断装置)
2001年9月以降はさらにこれでもかこれでもかとこんなことが繰り返されており、アフガニスタンやパキスタンでは、日本でもそうであるように医師は一般の労働者より高給で雇用され、その上サイドビジネスも当たり前の世界です。そんな人達は他の人を蹴散らしてでも楽をしてもっともっととお金を求めているのを目にしました。そしていつも困るのは診療所に来る住民です。

ほとんど無一物に近かった状態の時のほうが、立派な手術室を備えた今よりもはるかに活発だったという気もします。私も管理的な仕事がずいぶん増え、患者たちに接する時間が殆どなくなり、看護部を時々のぞくと以前トレーニングした現地スタッフがずいぶん自己流に作業をしているところも目立ち、多忙になった割に充実感のない状態が数年続いています。

「変わらないものは変わらない」
ダラエ・ヌール診療所の屋上から見える山々
得てして私たちは、何か目立つものが建つと事業が成ったように思い、逆に目立たないものは大切であっても評価されない、そんな現実を見てきました。それに、かつて誰もよりつかない所であった診療所付近は、各国のNGOが陣取り始め、米軍や新政府がコントロールしようとしています。

過去の病院の移り変わりを振り返りながら、複雑な思いです。でも、見えるものを失うよりも、見えないものを保つ方が大切な場合があります。現地と日本を見てきて「表面の事態がどんなに変わっても、変わらないものは変わらない」というのが、大きな慰めのような気がしています。

この原稿はちょうどクリスマスの頃に皆様に届けられるそうですが、日本にいる頃「ホワイトクリスマス」などとただ言葉の美しさに耳を傾けていた気楽さとうって変わり、パキスタンもアフガニスタンも、翌年の糧になる作物が作れるかどうかに大きく関わる冬の恵みである雪が、山を深く覆うことを願ってやみません。
もうすぐ過ぎ去ろうとしている2004年、私達の現地での作業を支えてくださった多くの方々に心から感謝しております。