厳しいが、人が人として生きられる大地
農業計画担当
橋本康範
ペシャワール会報83号より
(2005年04月18日)
「ズー?」
ダラエ・ヌールオフィスにて
楽しいだけではなかったけれど
“ズー?(行こうか?)”。いつもの言葉をパートナーのワリジャンに掛けダラエヌールオフィスを後にした。

当たり前のように眺めていた4,000メートル級のケシュマンド山脈、毎朝のスタッフとの抱擁・握手、現地食、でこぼこ道、村人。すべてが最後だとわかってはいてもとうとう実感が湧かなかった。そうなることが恐ろしいから気持ちが逃避しているからか。

空爆後、アフガニスタンの先行きがまったく見えない時期に私は現地入りした。あれから2年9カ月、アフガニスタン、PMSどちらも息をつかせぬ状況が続いた。副大統領の暗殺、たびたび起きた市内でのテロ、米軍の用水路作業現場への誤爆、軍閥間の争い、PMS事業ではカーブルからの撤退、農業計画開始、用水路事業開始、用水路第一次、二次通水など。そんな常に不安定(?)な状況の中、彼らとの生活においても一言では言い尽くせない様々な思いをした。

試験農場でのサツマイモ収穫。橋本ワーカ(左から5人目)と現地スタッフ、担当農家達
よかった、すばらしい、楽しい、といった単純な明るい言葉だけでは到底済まされない、時には本当に心から頭に来たり、悲しくなったり、悩んだりもした。
例えばこれまでまったく水がなかったところに農業用の井戸を掘ったところ今度はそれが原因で争いごとが起こってしまった。みんなを幸せにするはずの井戸が争いごとを生み、“俺のところによこせ”、“水がもっと欲しい”となる。これまで一滴の水さえなく生きることさえ難しかったのに。

約束を守らない政府関係者や人の弱みに付け込んで様々なことを要求してくる軍閥関係者。給与の賃上げ要求は日常茶飯事で、他のスタッフ以上に最大限の評価をしているスタッフから平気でクレームが来たりする。さらに、信じていたスタッフがお金に釣られて他のNGOへ移って行ったりもした。

現地スタッフ、担当農家達とのお茶
こう書いていたら何で約3年間もいたんだろう、なんて気にもなって来る。でも、それが人間なのか、とも思う。明日がくるかどうかで生きてきた人々を日本で平和に過ごしてきた我々がすんなり理解することは難しい。建前でなく本音で真正面からぶつかってくるからこそかえって居心地がよかったのかもしれない。

また、何もないこの土地に生きる彼らから人としてなにが大切か、本当の幸せとはなんなのかを教えられた。家族をなによりも大切にする。仲間を尊重し、客を手厚くもてなす。少々のお茶で最大限に会話・歌・踊りを楽しむ。結婚式・葬式は村をあげて祝い、また悲しむ。そんな彼らと一緒に生活をし、文化に触れ、心に触れていると、いつもすごく懐かしい感じがした。人が人として生きられる大地であったのだ、と思う。

お茶の選定をする橋本ワーカ(右)と高橋指導員(左)
お茶の栽培にも成果
ブディアライに到着するまでのわずかな時間、いつの間にか気が落ち着かなくなってきていた。ファーマー(地元農家)のアキルシャーがいつものように出迎え互いに握手を交わした。その時一気にこれまでの2年9カ月の思い出が私の頭の中を覆いつくした。

そして私は彼のことを直視できなくなっていた。やっとのおもいで、“最後のお茶でも飲もうか”というと、“最後ではないよ”と切り返してくる。カッターマシン部屋(農業計画で使用する作物粉砕機や道具が入っていて時に休憩にも使用される)に入った時にはどんな風に時間が過ぎていったかさえ思い出せない。顔を上げていると様々なものが目に入り、例えば鍬・スコップ・粉砕機・種・ホワイトボードに仕事内容を書いたアキルシャーの字など、それらからもこれまでの彼らとの生活・活動が思い出されるので下を向くしかない。すると手元にはお茶がある。これで私は万事休した。

私の農業計画での最初の大仕事は高橋さんを現地に迎え、指導・調査を手伝うことであった。その時ここブディアライに砂嵐と熱風が吹き荒れる中日本から高橋さんが持ってこられた茶苗を移植したのだった。そこから始まったお茶への挑戦は“剪定茶葉を番茶にて飲む”という一応の通過点を見た。

橋本ワーカ(左から2人目)と農業担当現地スタッフ
「私たちには絆がある」
アキルシャーとの仕事もその時が初めてだったのだが、ほとんど現地語を話せない私に“イングリッシュ・カモン”と両手を広げ迎えてくれたのだった。
“ゼ・ザム(私は行くよ)”。
最後にこの言葉が言い出せない。こんなにも苦しいものだとは想像もしなかった。“遠く離れてしまってもそれは問題ではない。私たちには絆がある。神のご加護がある。互いに幸せであることをいつも神に祈ろう”。ワリジャンが泣きながらそういってくれた。

この3年間の感謝の気持ちを彼らにうまく言葉で表すことは出来なかった。ただ、ただ心から“ありがとう”と言うのが精一杯だった。私は幸運にも農業、井戸、用水路、事務所、すべての現場において仕事をさせていただいた。そして総勢約160名いる現地スタッフと実際に一緒に仕事をし、それにより私は現地スタッフ全員をよく知ることが出来た。一人一人の名前・どんなスタッフなのかを答えられることがひそかな私の自慢であり宝である。近い将来家族、友人たちに話すのが楽しみである。

中村先生をはじめ藤田さん、日本人ワーカー、現地スタッフ、いつも陰ながら支えてくださった事務局の皆さん、会員の皆さん3年間本当にお世話になりました。師匠の高橋さん、農業のみならず人生についても多くの教えを頂きありがとうございました。そして何かと心配をかけた家族、友人のみんな、この場を借りてお礼申し上げます。
* 橋本康範さんは2005年03月で現地活動を終了しました。