自らの弱さを再認識させられる毎日です
ジャララバード事務所
重住正幸
ペシャワール会報83号より
(2005年04月18日)
ジャララバード事務所にて現地スタッフと打ち合わせ中の重住ワーカ(右)
いきなり私ごとで恐縮ではありますが、恥ずかしながら、正直申しまして、少々本音を言います。いや、弱音を吐くと言ったほうが正確かも知れません。

では、早速具体的な話になりますが、ご承知の通りここアフガニスタンにおいては、お酒というものがありません。何でも裏ではまったく飲めない訳ではないらしいのですが、少なくとも私は、ここに来て一滴も飲んだことはありません。

もちろん、その点は覚悟して来ているつもりですので、普段はあまり思い出さないようにし、また幸いなことに、私はアル中というほどではないので、酒のない暮らしも健康的で、まあいいか、とそれほど苦にはなっていません。

現場で現地スタッフと打ち合わせ中の重住ワーカ(右)とジア副院長(右から2人目)
しかし、そうは思っても、やはり時には、酷暑の夏の仕事の後の冷たいビールとか、冬の寒い日の夕食に熱燗で一杯など、日本での酒を欠かしたことのない毎日が思い出されます。さらには、酒という液体だけのことでなくとも、楽しい酒宴や馴染みの飲み屋など、酒とバラの日々の記憶が、あたかも、お前はここで暮らす資格のない人間だ、と言っているが如くに頭をよぎります。

これは酒に限らず、趣味とか娯楽などもろもろの楽しみや、或いは憂さ晴らしのためのいろいろな環境など、即ち、それらがほとんどできなくなった現在との比較が、つまるところ冒頭に書いた弱音の引き金を引いてしまうのです。もっともこれはあくまでも日本を例にして比較しているのであって、ここはここで、できる趣味や娯楽があり、それはそれで現地の方たちは楽しんでいるのでしょうが、それはともかく、次のような考えが浮かびます。

もしも私が、酒も飲まず趣味も道楽も持たず、憂さ晴らしも必要なしとして生きられる人間ならば、そんな弱音も吐かず、どんな所にだって苦もなく生活できることになります。つまりどのような生活環境にも耐えうる強い人間ということになる。ひるがえって、日本での生活で数々の楽しさを知ってしまった私は、それを実現できない場合、大層厳しい生活を耐え忍ばなければならず、不覚にも弱音も出てくる、まことに弱い人間ということになる。要するに人間は、楽しいことをすればするほど弱い人間への道を邁進することになるといった、いとも明快な結論に達してしまうのです。

お茶を楽しむ休憩中のスタッフ達
う〜ん、これは困った。この歳まで生きてきて、まあまあ楽しく人生を過ごしてきたと喜んでいたことが、実は、弱い人間になるためにそれまでの時を費やしてきたとは。でも、もう遅い。今から私の人生の楽しみを失くせと言われても。結局のところ、そんな楽しみとは、失えばたちどころに弱い人間を露呈してしまう、浅はかな楽しみだということになる訳です。本当の楽しみとは、いついかなる時にでも、その楽しみを持続できるものでなくてはいけないのです。

それに、ひとくちに楽しみと言っても、多様な意味があって、趣味や娯楽といった狭いものから、生きていく楽しみ、すなわち、生きがい、ということも広い意味での楽しみだと思われます。そして、信仰も生きがいと密に結びついていることは言うまでもないのでしょう。何も酒や趣味に頼って楽しみを見出さなくても、信仰があれば、人生の生きがいを見つけられ、且つどんな生活環境にも耐えうる強い人間になれるのではないか、と悔恨にも似た思いが頭をかすめます。

いずれにせよ、今、私の置かれている状況は、酒やら趣味やら道楽だのと、のんびりしたことを言っている場合ではないのですが、こちらでは、いつでもどこでも誰でもそうである、敬虔なイスラム教徒の祈りの姿を目にすると、以上のようなことをつらつら考えてしまう、弱い人間の私であります。